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京都の街から西国街道を進んだ先の向日市について先に触れた。ここからさらに南へ、長岡京市に入る。市名はまさに古代の都・長岡京に由来する。ただし都の中心・内裏は、長岡京市でなく、今の向日市域にあった。現代の長岡京市は人口約7万人。旧乙訓郡時代に郡の中心だった向日市よりも多い。長岡京市の代表スポットは長岡天満宮(長岡天神)だ。多くの天満宮の例に漏れず、牛がシンボルで梅の名所。加えて境内の八条池の端には初夏にツツジが咲き誇る。
長岡天満宮から東へ向かうと長岡京市の中心部。阪急の長岡天神駅からJR長岡京駅にかけてのエリアに商店街や商業施設。市役所もこのエリアにある。長岡京駅東口には再開発により2007年に竣工した村田製作所(電子部品大手メーカー)の高層本社ビルが聳え、新たなランドマークになっている。
長岡京駅から少し南に行った辺りに勝竜寺城という戦国時代の城があった。今は模擬櫓などがある跡地公園だが、当時の城郭はもっと広かったようだ。山崎の合戦で敗れた明智光秀が退避した城とされる。この城から南西の先の天王山との間が、天下分け目の戦い、豊臣秀吉と明智光秀がぶつかった山崎の合戦の舞台となった。この先はまたの機会に。
大阪は昔から水の都。元来、街中には川だの堀だのの水路が縦横に張り巡らされていたが、今は埋められたり、暗渠となっている部分も多い。それでもまだまだ数ある水路の中で最大のものが大川である。名のとおり大きな川。今は、淀川の最下流部は人工的に真っ直ぐの放水路が開削され、そちらが淀川とされているが、元は大川が淀川本流だったから、大きいのも当然だ。この大川をクルーズする船に乗って、川面から街を眺めてみた。
広大な大阪城公園の北端と超高層ビル地区・大阪ビジネスパークの間を流れる(流れるといっても大阪の水路はほとんど流れはない。)第二寝屋川にクルーズ船の発着場がある。先日、大阪港クルーズで乗ったサンタマリア号と同じく京阪電鉄グループが運航する、アクアライナーだ。とても屋根が低く全体に平べったい船体だが、これには訳がある。この船が下を通過する橋はどれも橋桁が低い。低い橋桁と川面の間の狭い空間を通れるよう、このような形になっている。川の水位が高い時には、さらに屋根を下げられる機構も備わっている。
出航してすぐ、大阪の最も著名なコンサート会場・大阪城ホールの下を通過すると、ほんの一瞬、大阪城天守閣が見えるスポットがある。この辺りの川岸の石垣は大阪城築城当初のものとのこと。間もなく船は大川に出る。
大川を下って最初の大きな橋が天満橋。OMMビルや京阪シティモールがあって、京阪電鉄グループが昔から拠点にしている地だ。近年、川の港として八軒家浜(はちけんやはま)港が整備され、江戸時代に船着き場だった頃の川辺の賑わいを取り戻そうとしている。
さらに進むと、大川は、北の堂島川と南の土佐堀川に分かれる。川の間の中洲状の部分が中之島。中之島の東端に架かるのが天神橋。この辺りから南へ東横堀川が分岐して、やがて道頓堀に続いている。天神橋と次の難波橋の間の中之島はバラ園になっている。4月の末は見頃より少し早かった。
さらに西の難波橋は橋詰の欄干にライオンの像があることから、ライオン橋とも呼ばれているそう。南詰のライオンが見つめる先にあるのが大阪証券取引所。この辺りが北浜という証券街で、さしずめ大阪のウォール街だ。
難波橋を過ぎると、中之島には(東から順に)中之島公会堂、府立中之島図書館、大阪市役所、日本銀行大阪支店と、淀屋橋に至るまで、モダン建築が並ぶ。まさに近代大阪の華といえる一帯である。
淀屋橋は、大阪のキタからミナミまで続く大メインストリート・御堂筋が通る橋。淀屋橋の南詰一帯が大阪最大最高のビジネス街。その西側約半分は「住友村」とも言われるほど、大阪を拠点とする大財閥・住友グループの社屋が並ぶビル街になっている。
この先は、大阪大学の中之島キャンパスがあった所。豊中や吹田に移転した跡地は美術館や科学館など文教ゾーンになった。さらに先は、安治川となり、やがて大阪港に至るが、船は淀屋橋の手前でUターン。大川を遡って桜宮を目指す。
桜宮にやって来ると、造幣局が見えてくる。造幣局の周囲の川沿いには桜並木が続く。4月末の今は葉桜だが、一月前なら花見の人で大賑わいだったはず。桜並木は造幣局の敷地内だが、桜花のシーズンには開放され、造幣局桜の通り抜けと言われる超有名花見スポットになっている。国の役所としては粋な計らいだと思う。
その先、OAPと帝国ホテル前を通過、源八橋で船は再び旋回、大阪城端の発着場に戻る。このクルーズのコースで通過する所は、大阪の最もいいところ、華麗な花のような部分だと私は思う。大阪というと猥雑な印象を持つ人が少なくないように思う。それが大阪の魅力でもあるが、今回のような上品な大阪もとてもおすすめである。
茨城県つくば市に国策で開発された学術エリア・筑波研究学園都市。現在およそ300の国や企業の研究機関が立地する。この都市で1985年に万博が開かれた。国際科学技術博覧会(つくば科学万博)である。当時、研究学園都市は開発途上で研究機関の移転が少しずつ進んでいるところだった。この万博の開催で、都市の認知度が上がり、研究機関の立地が加速したと言われる。
万博のメイン会場だった所は、現在、一部が万博記念公園に、その他の部分は、筑波西部工業団地となっていて、名だたる企業の研究機関が居並んでいる。
万博記念公園では、まず「科学の門」が迎えてくれる。万博会場内に設置されていたもののダウンサイズ・レプリカらしい。それを潜ると、芝生の広場。すり鉢状の緩い傾斜地になっていて、万博当時、大屋根が架かったイベントスペース「エキスポプラザ」だった場所の面影がある。さらに進むと池がある。万博建設時に造成されたもので、憩いの空間だった。池の側に立つ送電線塔は独特のデザインたが、「エキスポール」という名で、万博会場用に作られたものとのこと。
研究学園都市の中心部の方にはサブ会場があった。今そこには、つくばエキスポセンターが建つ。科学万博についての展示があって当時の様子を伺い知ることができる。科学技術というものの存在をあの万博で初めて認知したという少年少女も少なからずいたようだ。エキスポセンターは科学館として機能していて、広範な分野の科学技術についての展示やプラネタリウムもある。万博を継承して、子どもたちに科学技術というものを伝え続けている。
他にも当時の物を見られる所がある。ソ連館だった建物は、研究学園都市郊外にある専門学校に移設され、現在も校舎として使用されている。1970年の大阪万博の太陽の塔の作者・岡本太郎作のオブジェ「未来を視る」。科学万博のモニュメントとして会場にあったものだが、つくばエクスプレス万博記念公園駅の前に移設されている。
関東平野の北東部に聳える筑波山。標高877mながら、だだっ広い平野のただ中に他の山々から独立した形で存在するため、よく目立つ。双耳峰といって、頂上部に男体山と女体山の二つのピークがある特徴的な山容で、それとわかりやすい。富士山と並んで、江戸の町から望む遠景の象徴的な峰とされてきた。今でも、場所と条件次第で都内からも見ることができる。
今よりも大気が澄んでいたであろう古代なら、はるか遠くからでもよく見えただろう。いにしえより信仰の対象となってきた。筑波山全体を御神体とする筑波山神社が鎮座する。男体山と女体山の頂上にそれぞれ本殿があり、拝殿は山の中腹にある。拝殿に続く道に土産物屋や飲食店が並ぶ。拝殿の脇から1925年開業のケーブルカー(京成電鉄グループ運営)が山頂へと出ている。もちろん徒歩の登山道もあるが、他にロープウェイもあって、手軽に登山できる。
ケーブルカーは、男体山と女体山の間の平らになった鞍部に着く。ここが御幸ヶ原。ここから広い関東平野が一望、条件次第で、東京スカイツリー、大平洋、富士山までも望めるらしいが、私が訪れた時は、大気中の水蒸気が多めで、遠望は全くきかなかった。せいぜい麓のつくば市が見えたのみだった。
筑波山の南麓の一帯が、つくば市。1987年に4町村が合併してできた。1960年代から市域で計画・開発が進められてきた筑波研究学園都市の地元自治体が合併したものだ。東京に集中する国の研究機関の移転を目的に国策として開発推進された筑波研究学園都市。現在は300程の国や企業の研究機関が立地しているとのこと。これらの機関の研究者や学生が居住し、市の人口は20万を超えている。2005年には東京に直結する、つくばエクスプレスが開業し、最短45分の東京の通勤圏内ともなっている。研究学園都市が開発途上だった1985年、ここで国際科学技術博覧会(EXPO'85)が開催された。これについては、またの機会に。
いくつかの機関を訪れてみた。まずは筑波大学。1973年、都内にあった東京教育大学を母体として移転開学した国立大学。教職員約5000人、学生約16000人。およそ260㎡の広大なキャンパスは国立大有数の規模。
JAXAの筑波宇宙センター。1972年開設。我が国宇宙開発の中心的施設で、主に人口衛星の開発・運用などを行っていて、衛星の管制室や宇宙飛行士の訓練施設もある。一般向け展示施設があり、その活動の一端を見ることができるため、沢山の人が訪れている。
そして地理学徒としては筑波で外すことができない国土地理院。我が国の地図と測量を司る大元。ここで作製される地形図が、日本のあらゆる地図の元になっている。測量から得られた地理データは公式数値として関係分野では基礎となる。1979年に都内から移転してきた。展示施設として地図と測量の科学館がある。地理好き、地図好きの向きは必見である。
京都府の北西部、丹波地方に福知山市はある。京都府北部のみならず兵庫県北部も含めた近畿北部の中心都市で、役所の出先機関や企業の支店、営業所が多い。福知山の町としての起源は、戦国時代、織田信長の命を受けて丹波地方を平定した明智光秀が拠点として築いた福知山城の城下町である。城は江戸時代には福知山藩に引き継がれ、城下町は代を重ねたが、その繁栄の基礎は水陸の交通だった。
城下町が沿う由良川は日本海へと流れ下る。町の一角に川湊があって、ここから河口まで舟運が通じていた。その先は北前船航路である。一方の陸路側は、京の都へは山陰街道が、瀬戸内海へは、中央分水嶺最低点の氷上回廊を通過、その先、加古川舟運で通じていた。
近代に入り鉄道の時代になって、福知山はますます交通の要衝として発展する。まず、1899年、大阪との間に鉄道(現福知山線)が開通。1904年には、舞鶴軍港まで延伸された(現舞鶴線)。1910年には京都にも鉄道がつながり(現山陰本線)、1911年以降、逆側の兵庫県但馬地方へ延びていった。後の1988年には宮津・天橋立へも鉄道(現京都丹後鉄道)が開通している。国鉄時代の福知山は鉄道の一大拠点、多くの鉄道マンがいた。鉄道管理局が置かれ、まさに鉄道の町だった。(鉄道管理局はJR福知山支社(現在は福知山管理部に降格)に引き継がれた。)今も四方向に特急が通じる鉄道拠点としてなお健在だ。
福知山が交通の要衝となった地理的基礎は、この地の土地の低さにある。山国・丹波の山間にありながら、福知山の辺りは標高が低く、四方に開けている。それが交通路に適したわけだが、災いももたらした。水害である。福知山の街は由良川河口から40km近く遡るが、標高はわずかに20m程。下流の流れが緩やかなので、福知山盆地から水が流れ出にくい。特に市街は川沿いの低地のため、洪水の危険地帯で、度々水害にあってきた。城下町時代はもちろん、治水が発達した現代でもなお水害が発生している。
自動車高速道路の時代となり、福知山にも舞鶴若狭自動車道(1987年開通)が南北方向に貫通している。しかし、そこから分岐するいくつかの高速道は、福知山ではなく、他のジャンクションで分岐していて、交通の結節点としての福知山の地位が低下している感がある。街道や舟運、鉄道に比べれば、はるかに地形の影響を受けにくい高速道路。多少の山ならトンネルでなんなく通過、迂回の必要もない。福知山の地形的利点が意味を持たない時代になったともいえるだろう。
大阪・関西万博が開催中で注目される大阪ベイエリアをクルーズ船で巡ってみた。大阪のベイエリア又は港湾地区は、主に、築港地区と、人工島の咲洲、舞洲、夢洲からなる。
築港地区は、1897年から1903年にかけて造成された近代大阪港の元祖の地で、大阪税関はじめ海事関連の役所や会社が集積する業務地区でもある。ここには、日本一低い山(標高4.5m)とされる天保山がある。江戸時代に川を浚渫して出た土砂を積み上げてできた人工の山。当初は20m程の高さがあり、眺めの良い遊楽地だったようだ。今は静かな公園だ。この側には天保山渡船場があって川の対岸へと渡るポンポン船が出ている。自動車交通が席捲するまでは多くの利用者があった。
こうした近世から近代までのノスタルジックな風景の隣は若い人達で賑わうエリア・天保山ハーバービレッジである。水族館の海遊館、複合商業施設の天保山マーケットプレイス、大観覧車などがあり、1990年に再開発された地区だ。近年には国際クルーズ客船の乗船場も整備され、時折、巨大な船体が入港する。
私が乗船した大阪港内巡りの観光クルーズ船も天保山ハーバービレッジから出ている。京阪電鉄グループの大阪水上交通が運航するサンタマリア号だ。外国人も含めてたくさんの人が乗船した。船は出港すると天保山の前を通過、天保山大橋の下を潜って安治川を遡上する。
すると、天保山の向かい側にあたる一帯に、言わずと知れたユニバーサルスタジオジャパン・USJとそのオフィシャルパートナーのホテル群が見えてくる。USJは2001年の開業。工場や倉庫が並ぶ地帯の一画が再開発されたものだ。古びた貨物線も同然だったJR桜島線もアクセス鉄道としてリニューアルされた。
このまま安治川を遡れば、都心の中之島などに通じているが、観光船はUSJの前でUターン、安治川河口部へと戻って行く。河口部右岸は、大阪北港の工業地帯。その奥には人工島の舞洲があるが、船からはよく見えない。舞洲は主に1990年代に開発された。大阪は2008年のオリンピック開催地に立候補したが、北京に大敗して実現しなかった。その夢と消えたオリンピックの会場予定地が舞洲だった。夢の跡には、舞洲スタジアムや舞洲アリーナがあり、それぞれプロ野球・バファローズ二軍、Bリーグ・エベッサがホームとして利用している。大阪府・市のゴミ処理施設は、それとは思えないメルヘンチックな外観で一見の価値あり。万博会場へのシャトルバスの発着場があり、EVのバスがひっきりなしに行き交っている。
船はさらに港の出入口の方に向かって進む。右手前方に見えてくるのが、万博会場のある夢洲。いくつものガントリークレーンが並ぶ岸壁が見える。万博会場はその奥側にあって船からはほとんど見えないが、多くの来場者でごった返していることだろう。いろいろ言われてるが、大成功に終わることを祈ろう。万博終了後は跡地にIR(統合型リゾート)の建設が予定されている。島の名前のように夢に終わらないよう願う。
船はここで向きを変え、港内を南の方へ向かう。右手に見えるのが、咲洲・大阪南港(大阪南港についてはコチラも御参照)。3つの人工島のうち最も早く造成された。まず国際フェリーターミナルの前を通過する。大阪府の庁舎になっている超高層ビル・コスモタワーを背景に、プサンや上海への貨客フェリーが発着する岸壁が見える。続いて、ガントリークレーンが並ぶ岸壁。本土と咲洲を結ぶ港大橋の下を潜った先にもガントリークレーンが無数に立ち並ぶ。咲洲の岸壁は、夢洲の新しい岸壁と並んで大阪港の港湾機能の中心部。圧巻の景観だ。
咲洲の岸壁の前で船は折り返し、築港地区の発着場へと戻る。巨大、広大の港湾地帯を見た後では、築港地区が小さく感じられる。しかし、ここが近代大阪港の元祖。ここから巨大港湾へと拡張していったのである。
山崎の合戦で敗れた明智光秀が退避した城とされる、京都府長岡京市の勝竜寺城について以前に触れた。この城から南西の先の天王山との間が、天下分け目の戦い、豊臣秀吉と明智光秀がぶつかった山崎の合戦の舞台となった。大山崎町の町域である。
大山崎町に入ると、まず、明智光秀が陣を張ったと推定される境野1号古墳がある。その先、京都縦貫自動車道の高架下に合戦場の記念碑のある公園があり、その側の小泉川という小川を挟んで両軍が睨み合ったという。公園に立って、すぐそこの小川の対岸に敵方がいると想像してみると、当時、戦場にいた者の戦慄が感じられる気がする。
そして秀吉方の背後の山が天王山。天下分け目の合戦の地に聳えることに因み、物事の雌雄を決するような一大事に対して、「◯◯の天王山」という言い方がされる。また、かつては山城と摂津の国境、今は京都と大阪の府境にもなっている。標高270mながら、登ってみると意外に急で、結構きつい登山になった。山腹からは、山崎の合戦の舞台が一望できるのはもちろん、西側に視界を移せば、京都盆地から流れ出る川が合流する三川合流の地、対岸に男山、そして淀川が流れ行く大阪平野を見渡せる。
天王山の山裾に沿って続くのが西国街道の山崎宿。京都府と大阪府にまたがって宿場町が続いていた。山崎からは川の対岸の橋本へ渡る渡し船が出ていた。山崎の地は今も交通の要衝で、天王山と三川合流点の間の狭い所を東海道新幹線、東海道本線、阪急京都線、国道171号が通過している。JR山崎駅は、駅舎が京都府で、プラットホームの途中を府境が横切っている。
府境を越えると大阪府島本町。少し行った所に水無瀬神宮がある。かつて鎌倉時代、後鳥羽上皇の離宮があったとされる。京都府側の山崎にも平安時代の嵯峨天皇の離宮があったといわれる。今その地には、その名も離宮八幡宮が建つ。この一帯は風光明媚だったのだろう。
水無瀬神宮に「離宮の水」と名付けられた清水が湧いている。山崎周辺は水に恵まれた所。サントリーのウィスキー工場があり、そこで蒸溜される「山崎」銘柄は有名だ。東に戻るが、大山崎町の合戦の舞台にはサントリーのビール工場もある。いずれも、この地の豊富な清水により立地したものだ。
さらに進むとJR島本駅に至る。駅前の公園が古代山陽道の宿駅・桜井駅の跡地。楠木正成の「桜井の別れ」の地でもある。京の都に攻め登って来る足利尊氏を討つべく戦地に向かう朝廷方の武将・楠木正成が、随行する息子を諭して郷里に帰らせ、それが今生の別れとなった逸話が伝わる。その像が建っている。
ここから阪急水無瀬駅を越えて淀川河川敷の方に向かうと、高浜砲台跡がある。幕末に江戸幕府が、淀川を遡って来る異国艦に備えて設置したもの。対岸の樟葉砲台と対になって両岸から睨みを効かせていたわけだ。
天王山・山崎の一帯は、川の対岸の男山・橋本一帯と対になって京都・大阪間の関門のようになっている。京阪の境界であり、両者をつなぐ交通の通路でもある。