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 舞鶴若狭自動車道 ー その名称について

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★人気No.1  フィリピン海 ~ 知ってますか?

サイパン・グアム・マリアナ諸島

 7月7日は一般的には七夕だが、私はサイパン玉砕の日としても記憶している。太平洋戦争中の1944年、サイパン島を守備する日本軍がアメリカ軍の猛攻により全滅した日だ。この日を機会に、サイパンとグアムを含むマリアナ諸島の地理、歴史と日本との関係についてふれてみよう。

 マリアナ諸島は日本の小笠原諸島の南、約500kmの洋上。南北800kmにわたって小島が連なり、太平洋からフィリピン海を隔てている。南端のグアム島が最大だが、それでも淡路島と同じぐらい。他にサイパン、テニアン、ロタが主要な有人島。他は極小の島々でほぼ無人。北緯10~20度付近に位置するから気候は熱帯性で高温多雨。台風の発生地帯に近く、時にその被害に遭う。現在人口は約20数万人(うち3/4がグアム)。

マリアナ諸島全図

 主要住民のチャモロ人は今から4~5千年前にフィリピン方面から渡ってきたと推定される。狩猟採集、漁労や根菜類の栽培を生業として暮らしていた島々に大きな変化が訪れる。その端緒は、16世紀、メキシコとアジア間の太平洋交易の寄港地としてスペインが支配下に置いたことである。マリアナ諸島という名もこの時代に王妃の名にちなんで付けられた。その後、1898年から、グアムはアメリカ領に、グアム以外はドイツ領となる。

 1920年、第一次世界大戦の結果、ドイツ領だった島々は、国際連盟委任統治領として日本の統治下に入った。日本の統治は25年間続き、その名残は後々までも様々に見ることができた。私は2004年にサイパンを訪れたことがあるが、日本統治下で建てられた神社、病院やサトウキビ運搬鉄道の機関車が残っていたし、「ONIGIRI」「BENTO」がスーパーに並んでいた。日本語のできる人や日本的な姓や名の人もいた。チャモロ語には多くの日本語の単語が入っているそうだ。

 太平洋戦争開戦でグアムも一時期、日本軍が占領。その後、アメリカ軍の逆襲でサイパン玉砕が起こったわけだ。マリアナ諸島全てを手中にしたアメリカは、テニアンに基地を築き、ここから日本本土空襲の爆撃機が出撃した。広島、長崎に原爆投下した爆撃機もここから飛び立っている。

 太平洋戦争後も、グアムは引き続きアメリカ領、その他のマリアナ諸島も国連信託統治領としてアメリカが統治した。この信託統治領の島々はその後、独立することなく、1986年、「北マリアナ諸島」というアメリカ自治領に移行している。アメリカ施政下では、アメリカ軍の要衝で直轄統治のグアムが基地経済で潤っている他は、本国の財政援助で成り立っていると言って過言ではない。

 日本との関係では、1980~90年代にかけて、グアムに始まりサイパン、ロタまで、リゾート観光地として大量の日本人が押し寄せていた。定期直行便が何便も飛んでいた。今では、韓国人や中国人が取って代わり、日本の存在感が低下している。航空機でわずか3時間ほど、我が国の南の隣人であるマリアナ諸島。日本の皆さんにももっと注目してもらいたい。天気予報の台風情報で時折その名が出てくるだけでは悲しい。

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新潟港

 新潟は、本州日本海側で最大の都市かつ唯一の政令指定都市。その港湾も最大規模。そもそも新潟の町の起源は湊町だ。日本海に流れ出る日本最長の大河・信濃川。その中下流域には、これまた日本海側最大の新潟平野が広がる。広大な平野で獲れる米などや、さらに上流の信州方面の産物の積み出し港として、河口に発達したのが新潟の湊と町である。古代において既に「蒲原の津」などと呼ばれる湊が設けられていたらしい。江戸時代には、平野の真ん中に位置する長岡藩が新潟の湊を管理し、北前船の寄港で大いに賑わったという。

新潟の元来の中心街(新潟日報ビルから)
手前・信濃川。背方・日本海。橋は名橋・万代橋

信濃川河口の新潟(西)港(新潟日報ビルから)
中央の高層ビルは「朱鷺メッセ」。奥は日本海

江戸期の湊の水先案内人「水戸教」の記念公園

 幕末1858年の日米修好通商条約により、函館、横浜、神戸、長崎とともに対外開港、運上所(後の税関)が設けられた。しかしながら、その後の新潟の貿易港としての発展は、横浜や神戸とは雲泥の差、函館、長崎にも見劣りする在り様で、全く振るわなかったと言ってよい。早くも1902年には新潟税関は支署に格下げされている。不振の原因は複合的だろうが、河口という港の立地が足枷となったのは明かだ。大型船が入る近代港湾は深い水深を要するが、川の流砂が次々と堆積する河口では、水深を保つため常に浚渫が必要となるからである。

旧新潟運上所(旧新潟税関)庁舎

旧新潟運上所の石庫(保税倉庫)

旧新潟運上所の荷揚げ場

 そうした河口港のハンディも、その後の土木技術の発達で克服される。1920年頃からは、次々と近代埠頭が建設され、近代港湾として整備されていった。日本の大陸進出で、朝鮮半島や満州など日本海の対岸との海運の拠点ともなった。新潟港の近代的発展の最たるものは東港の建設だ。1969年開港の東港は、旧来の新潟港の東、河口を避けて、砂浜の海岸に水路を掘って造った「堀込み式」という方式の大規模港湾。これも土木技術の発達で建設可能になったものだが、今や工業港、貿易港として発展を遂げている。

現・新潟港全域の概略図
(新日本海フェリー乗り場付近の案内板から)

東港(2004年撮影・県港湾資料室の展示から)

 現在では、港湾機能のメインの部分は東港が担い、旧来の新潟港は西港と呼ばれるようになっているが、やはり、新潟港といえば誰もが西港を思い浮かべるだろう。市街のすぐ側のうえ、人目に触れる、旅客海運と歴史・観光エリアが西港のメインだからだ。西港の埠頭からは、新潟の沖合いの佐渡と結ぶフェリーと高速ジェットフォイルが出ている。関西に通じる敦賀(福井県)、東北の秋田、北海道の小樽と苫小牧(ここも堀込み式)へは大型フェリーが就航している。左岸では、旧運上所の建物を中心に博物館など歴史ゾーンが形成され、右岸にはコンベンション施設の「朱鷺メッセ」があって、港湾エリアに人を呼び込んでいる。

西港停泊中の佐渡汽船のフェリー

北海道へと信濃川河口を往く新日本海フェリー
(山の下みなとタワーから)

(左から)旧運上所、市歴史博物館、旧第四銀行など歴史ゾーン
(朱鷺メッセから)

朱鷺メッセ

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プロ野球・球場跡地紀行 - 関東編

 「駒沢球場」という野球場は御存知だろうか。世田谷区にある駒沢オリンピック公園は、1964年の東京オリンピックの競技会場として整備された複合運動公園だが、このオリンピック会場建設のために取り壊されたのが、ここにあった駒沢球場である。この球場は、1953年、東急電鉄が、自社系列のプロ野球団・東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズの前身)の本拠地として建設したもの。自社鉄道線の沿線に球場を建設してプロ野球を興行、観客を呼び込んで旅客の増大を図るという、阪急や阪神など関西の私鉄で先行していたビジネスモデルを真似たものだ。

駒沢球場跡地に建つ駒沢オリンピック公園第二球技場

 当時の駒沢は、まだまだ田畑が残る郊外で、如何せん都心から距離があり過ぎた。目論み通りには観客は入らなかったようだ。1962年には、オリンピック競技施設建設のため、あっけなく取り壊されている。辺り一帯は広大なオリンピック公園となり、競技場や体育館などが多数建設され、球場のあった場所には第二球技場が建てられた。(現在、駒沢オリンピック公園には野球場があるが、これは別の位置にオリンピック後に建てられたもの)

同上

 では、「東京スタジアム」は御記憶にあるだろうか。1962年、現プロ野球ロッテの前身である大毎オリオンズの親会社・大映が開設した、プロ野球専用球場である。それ以前のオリオンズは、巨人軍などと後楽園球場東京ドームの前身)を共用で本拠地として使用していたので、その専用球場を建設したのである。場所は荒川区南千住。

東京スタジアム跡地の荒川区施設

 いわゆる下町の住宅街に突如として出現した最新鋭の近代的スタジアム。物珍しさで初年度こそ観客を集めたようだが、その後はジリ貧。奇しくも時は巨人軍V9の時代。成績もパッとしないオリオンズの試合を観に行く人は稀だった。開場からわずか10年、1972年に閉鎖となった。現在は区のスポーツ施設や警察署などが建ち、跡形もない。

同上 背面のグランド

 川崎球場なら、まだ記憶にある方も少なくないのでは。京浜工業地帯の川崎は、大手メーカーの工場が集積し、それらメーカーの野球部の活動が盛んな土地柄だった。そこで、社会人野球の拠点とすべく、日本鋼管(現JFE )、東芝、味の素など地元メーカーの出資により開設されたのが川崎球場である。1952年のことだった。折しも当時は首都圏で後楽園球場以外にプロ野球で使用できる球場が不足していたから、早速1955年から大洋ホエールズ(現DNA)が本拠地として使用。大洋球団が横浜へ移転した後1978年からは、東京スタジアムを失ったロッテオリオンズが本拠地とした。

川崎球場跡地に建つ川崎富士見球技場

同上隣接施設にある川崎球場メモリアルコーナー

 当時のパ・リーグの球場はどこもそうだが、川崎球場も御多分に漏れず閑古鳥。改修もされず、老朽化進むに任せる状態だったが、張本勲の3000本安打や落合博光2年連続三冠王など大記録も生んだ。この球場で最高のメモリアルは何と言っても「10.19」だろう。1988年、優勝目前の近鉄バファローズが、ファンで溢れかえる球場でロッテとの一戦に臨んだが勝てず、優勝を逃した一件だ。1992年にロッテが千葉へ移転した後はアメフトの試合などに利用されたが、2000年にスタンド取り壊し、後継施設としてアメフト仕様の「川崎富士見球技場」が開設されている。

アメフト試合中の川崎富士見球技場内

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伏見稲荷と東福寺

 5月はじめの新緑の季節、伏見稲荷大社と東福寺を訪れてみた。二つの社寺の間の距離は1.5kmほど。数ある京都の有名社寺の中では、隣同士と言ってもよい。超有名どころ。これらの社寺自体については多くの説明を要しないだろう。

おなじみ、伏見稲荷・千本鳥居

 まずは伏見稲荷。比叡山から大文字山、八坂神社や清水寺の後背の山々を経て、伏見の桃山まで連なる東山連峰。その一角である稲荷山(標高233m)の山裾から山頂にかけて境内が展開している。楼門や本殿、観光客に人気の千本鳥居、おもかる石などは山裾に、山頂部には、この神社の原初といわれる上之社などの社が点在している。本殿、楼門、大鳥居の配置ラインは、稲荷山を背にして西向き、つまり傾斜の高い方から低い方を見下ろす形である。

楼門。奥に外拝殿、本殿

外拝殿。奥に本殿、その背後に稲荷山

 さて、この伏見稲荷、行政区上は伏見区だが、元来の伏見の町にあるわけではない。伏見とは数kmの距離があり、歴史的に別の経緯で発展してきた深草地区にある。なのに、なぜ深草稲荷ではなく、伏見稲荷なのか。不思議に思っていたのだが、どうやら簡単な理由らしい。1946年までは、「伏見」を冠さず、単に稲荷神社だったそうだ。名が次第に全国区になるにつれ、どこの稲荷なのか明確にする必要が出て、伏見を冠するようになったとのこと。ローカルすぎる「深草」ではなく、より名の通っていた「伏見」を選んだようだ。

賑わい過ぎる参道

 続いて東福寺。伏見稲荷が季節に関係なく観光客で溢れかえっているのに対して、新緑の時季、紅葉の名所の東福寺は静かだ。青もみじが映えて、私は好きだが。紅葉シーズンには、ここも人が溢れる。

臥雲橋から望む通天橋と青もみじ

 東福寺も東山連峰の山裾に展開。三門から本堂へと続くラインは南北方向、つまり、この寺院は南向きに建てられている。傾斜の方向は伏見稲荷と同じく東西方向だが、土地の傾斜とは関係なく、南面することを優先して設計されたのは明かだ。私の観察では、社寺の多くは、傾斜の高い方から低い方を見下ろしているか、南向きか、の2パターンのどちらかである。どういう場合にどちらのパターンになるかという法則性はまだ発見できていない。神社と寺院による違いかといえば、そうでもない。同じく東山連峰の山裾にある八坂神社は南向き、清水寺は下を見下ろすパターンだ。

三門。南向き。奥に本堂。

 京都の東寺に対して、かつて西寺があった。奈良の東大寺に対しては西大寺があった。では、東福寺に対して、西福寺もあったのかと考えた。どうやら、それはなかったようだ。東福寺の名は、東大寺と興福寺から一文字ずつ借用したものとのことだ。(実は西福寺という寺は京都に存在するが、命名の由来は東福寺と関係なく、東福寺と対で建立されたものでもない。)

本堂

本堂の天井に描かれた「蒼龍」(堂本印象・1933年作)

 最後に、伏見稲荷と東福寺の最寄り鉄道について。伏見稲荷・東福寺の最寄り鉄道は、京阪電鉄とJR奈良線である。伏見稲荷の最寄り駅は京阪電鉄が伏見稲荷駅、JRは稲荷駅。京阪伏見稲荷駅は神社から数百mの距離があって、その間の道沿いには店が並び、観光客でごった返している。JR 稲荷駅は大鳥居と道路を挟んだ目の前。駅を出た客はそのまま神社へと吸い込まれていく。東福寺の最寄り駅は京阪・JR とも東福寺駅。寺から少し離れた所に両社の駅が平行して並ぶ。

京阪伏見稲荷駅

JR 稲荷駅は神社の目の前

 京阪電鉄は、大阪と直結していて、この方面からのアクセスがよく、また、清水寺、祇園、平安神宮など京都の他の名所との周遊にも便利。一方のJR は京都駅発着だから新幹線や関空特急利用の観光客に利便性が高い。資料によれば、伏見稲荷でも東福寺でも、停車本数、乗降客数とも、JR に軍配が挙がっている。

東福寺駅。手前・京阪、奥・JR

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草津市の街道(滋賀県)

 4月下旬の時期、滋賀県草津市の志那地区の三つの寺で藤の花が咲き誇っている。三大神社、志那神社、惣社神社。三つの寺はいずれも徒歩圏内。市により藤の神社巡りのキャンペーンが行われている。出店の店番や駐車場係などが地元自治会の人たちというローカル感がまた良い。

三大神社

志那神社

惣社神社

 さて、滋賀県の草津といえば、この地の江戸時代の街道に触れないわけにはいかない。京の都を出て東海道を江戸へ向かう場合、二つ目の宿場が草津だった。ただ草津は普通の宿場とは違う。この地で、東海道と中山道という江戸・上方間の当時の二大幹線が分岐・合流していた。そのため、宿場町は他よりも一際大きかった。今も本陣などいくつかの建物が残るが、マンションが建つなどして歯抜けになり、大きな宿場だった割には、往時の風情を感じられる部分は比較的少ない。

草津宿街道交流館の掲示

草津宿本陣

草津宿の東海道

東海道沿いの立木神社でも藤の花が。

東海道・中山道の分岐・合流点にあるマンホール蓋

分岐・合流点。左・中山道、右・東海道(江戸方面)
中央に道標、左手の高架は旧草津川の河道

旧草津川河道上から分岐・合流点を見下ろす。
左から来るのが東海道(江戸方面)、直進は東海道(京都方面)

旧草津川河道を潜った先の中山道

 今、東海道と中山道の分岐・合流点のすぐ側で旧中山道は短いトンネルを潜っている。何を潜っているかといえば、川である。今は、河道が別の所に付け替えられて、廃川(2002年)となって水はないが、以前は本当の川だった。この草津川はじめ、この辺りのいくつかの川は「天井川」といって、周囲の土地よりも河道の方が高くなっている。土砂が堆積して川床が高くなる。氾濫を防ぐため堤防を築く。また土砂が堆積する、さらに堤防を高くする。この過程を繰り返して形成されたものだ。草津の旧宿場町付近では二階建て家屋の屋根よりも河道が高い。もっとも、江戸時代はまだ後の時代よりも河道は低く、渡しで川を渡っていた。

旧草津川の河道。遊歩道型の公園になっている。

 さて、この草津宿を出て東海道を京都方面へ進むと、矢橋(やばせ)道という街道が右手に分岐していた。この分岐点からそのまま真っ直ぐ行けば、東海道は琵琶湖の南端を迂回する形で瀬田の唐橋を渡り、次の大津宿、そして京都に至る。このように琵琶湖を迂回する分の遠回りを避けるため、矢橋道に入って琵琶湖岸に出て、そこの湊から舟で対岸の大津へと渡るバイパスルートがあった。「急がば回れ」という諺の由来となったとされるルートである。

東海道・矢橋道(右)分岐点
江戸時代、角に名物「姥が餅」の茶店があった。

矢橋道

矢橋の湊・石積突堤跡。左奥には常夜灯も残る。

矢橋港遠景

矢橋港から沖を望む。
面前に帰帆島(人工)が造成され対岸の大津は見えない。
大津の背方にある比叡山が見えている。

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神宮球場界隈

 前回、東京ドーム界隈を巡った。今回は、東京のもうひとつのプロ野球本拠地球場である神宮球場とその周辺を歩いてみた。

神宮球場・正面

神宮球場・バックスクリーン裏

神宮球場を所有する明治神宮

 神宮球場は、正式名称が明治神宮野球場であるように、宗教法人・明治神宮が所有する球場。プロ野球・ヤクルトスワローズの本拠地球場で、同球団初のリーグ優勝決定(1978年)、村上宗隆選手のプロ野球記録・シーズン56号ホームラン(2022年)もこの球場でのこと。今や、神宮球場といえばスワローズの感があるが、実は、1960年代まで、明治神宮はこの球場のプロ野球の使用を認めなかった。お堅い神社としては、興行性のものとは一線を画すというのが理由だったようだ。

左翼後方に国立競技場が見える。
クレーンは新秩父宮ラグビー場建設工事

スワローズ選手クラブ(球場隣接)

 神宮球場の開場は1926年。東京ドームの前身、後楽園球場よりも随分と早い。当時人気を博していた早慶戦、そして東京六大学野球の会場とするため、後述する明治神宮外苑の一施設として開設された。以来、学生野球の聖地と言われるまでになった。プロ野球に解放後も、この地位は変わらず、東京六大学野球の他、東都大学野球リーグ、全日本大学野球選手権、明治神宮野球大会、高校野球地方大会など、アマチュア野球の利用が盛んである。

東京六大学野球発祥の地の碑(球場外縁)

 神宮球場を含む明治神宮外苑は、明治天皇の記念公園として、当時の国家的事業で建設されたもの(そもそも明治神宮本体(内苑)が明治天皇を祭祀する官営神社として創建)。現在までたくさんのスポーツ・文化施設が設置されている総合公園。国立競技場は、同じ場所にあった明治神宮外苑競技場がルーツ。大平洋戦争中、出陣学徒の壮行式が行われた所だ。秩父宮ラグビー場は我が国ラグビーフットボールの聖地。(厳密には上記二つは現在は国立で明治神宮所有ではない。)他に、軟式野球グランド6面、バッティングドーム、テニスコート、室内球技場、ゴルフ練習場、アイススケートリンクなどなど、列挙しきれないほどの施設がある。かつては相撲場や水泳場もあった。

国立競技場

かつての明治神宮外苑競技場の写真
(秩父宮記念ギャラリーの展示から)

出陣学徒壮行の地の碑(国立競技場外縁)

国立秩父宮ラグビー場

軟式野球グランド

バッティングドーム

室内球技場

アイススケートリンク

 外苑にある様々な施設の中で、当初の外苑設立目的からいって最重要施設は、聖徳絵画記念館だろう。明治天皇の生涯の各場面を描いた絵画を展示する。外観はドーム屋根が印象的な左右対象の重厚な石造り。その正面に続く銀杏の並木は、外苑開園当初からのもので、外苑の代表的な景観となっている。現在、結婚式場として営業している明治記念館も明治天皇関連施設。明治憲法草案審議の天皇御前会議が行われた赤坂御苑の殿舎が移築されたものだ。

聖徳絵画記念館(右側は修繕中)

絵画記念館前の銀杏並木

明治記念館

 さて、神宮外苑は、だだっ広い陸軍青山練兵場の跡に造成されたものである。練兵場には明治天皇が閲兵に何度か訪れた。その際にその下に天皇の御座が置かれた榎が外苑の杜の中で記念物となっている。明治天皇崩御の際には練兵場で大喪礼が行われた。その葬場殿の跡地は絵画記念館の裏手。(なお、明治天皇の御陵は京都の桃山

明治天皇御観兵榎

明治天皇大喪礼の葬場殿跡

 練兵場の隣接地には他にも陸軍施設が構えていた。西側、現在の都立明治公園、日本青年館、日本オリンピック委員会本部や國學院高校のある一帯には、近衛歩兵聯隊駐屯地。なお、日本青年館は、明治神宮及び外苑の建設に奉仕した全国の青年会の功績に報いて開設されたもの。東側にあった陸軍大学校の跡地には現在、区立青山中学校などが建つ。

近衛歩兵連隊跡の碑(都立明治公園)

日本青年館

日本オリンピック委員会本部

國學院高校

区立青山中学校

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東京ドーム界隈

 球春到来。プロ野球が開幕した。ということで、プロ野球のメッカ、東京ドームとその周辺を巡ってきた。

 東京ドームは、1988年に開業した我が国最初のドーム型野球場。言わずと知れた読売巨人軍の本拠地スタジアム(2003年までは日本ハム球団も本拠地として使用)。プロ野球の他には、国際大会のWBC、社会人の都市対抗野球大会などの試合が開催される。野球以外ではアメリカフットボール「ライスボウル」など、さらに国内有数のコンサート会場でもある。野球殿堂博物館が併設されていて、我が国野球の栄光の歴史を学ぶことができる。

東京ドーム・長嶋ゲート

ジャイアンツショップ

野球殿堂博物館

球団のユニフォームなどと日本シリーズ優勝杯
(野球殿堂博物館の展示)

野球殿堂入り各氏のレリーフが並ぶ。
(野球殿堂殿堂博物館の展示)

WBCの優勝トロフィーやユニフォームなど
(野球殿堂博物館の展示)

社会人野球「都市対抗野球大会」
(野球殿堂殿堂博物館の展示)

太平洋戦争で犠牲となった野球選手の鎮魂碑

 東京ドームは、この球場を中核とするエンターテインメントパーク「東京ドームシティ」の中にある。「ATTRACTIONS」などの遊戯施設、スパ施設などの「La Qua」、複合商業施設「MEETS PORT」、東京ドームホテル、プロレスやボクシングの聖地「後楽園ホール」、ボウリングその他の屋内スポーツ施設、場外馬券売場等々、多数の施設で構成される東京ドームシティは、時代の変化に応じて、その施設構成を刷新してきた。

ATTRACTIONSとLa Qua

MEETS PORT

東京ドームホテル

後楽園ホールビル

多様なアミューズメント施設が入る「黄色いビル」

 東京ドームもこの地の野球場としては二代目である。東京ドーム開場以前には、現在、東京ドームホテルやプリズムホールの建つ辺りに「後楽園球場」があった。この球場の老朽化に伴い、隣にあった競輪場を解体して、後継球場の東京ドームが造られたという経緯。後楽園球場は、太平洋戦争前の1937年の開場。前年に始まったプロ野球の東京での主会場として建設された。東京でプロ野球の試合を開催できる球場が不足していたことから、1960年代まで5球団が本拠地とし、まさにプロ野球のメッカ。その後も読売ジャイアンツの全盛期に大観衆の前で数々のドラマが繰り広げられた。長嶋茂雄の引退セレモニー、王貞治の世界記録756号ホームランも後楽園球場だった。

後楽園球場跡地一帯

後楽園球場の復元模型
(野球殿堂博物館の展示)

王貞治756号ホームラン記念碑
(野球殿堂博物館の展示)

 さて、後楽園球場は、関東大震災で被災して移転した陸軍工廠の跡地に建設されたものだが、明治維新で陸軍用地となる以前、江戸時代には、水戸藩上屋敷の敷地だった場所。代々の水戸藩主が暮らした屋敷である。現在、東京ドームの西隣に有名な庭園「後楽園」がある。後楽園は、水戸藩屋敷の庭園として、江戸時代初期、初代藩主から二代・光圀公の時代にかけて造成されたもの。陸軍用地となっても庭園だけは残された。訪れれば、最高級の大名庭園の風情を堪能できる。

後楽園・正門

後楽園の創設者・徳川頼房と光圀

背景に東京ドームも後楽園らしくて良い。

唐門と内庭。左端は陸軍工廠跡の碑

光圀公が農民の労苦を親族に体験させるために設けた稲田が今に続く。

庭園外塀の石積は江戸城の堀の石を再利用

 さすがに徳川御三家・水戸藩の上屋敷はとても広大だった。後楽園はもちろん、現在の東京ドームシティの全て、さらに周辺の東京メトロ後楽園駅、区立礫川公園、中央大学後楽園キャンパス、トヨタ東京本社、日中友好会館も含み、さらには文京区役所や柔道の総本山・講道館の一部にまで及んでいた。この屋敷に暮らし、庭園を愛でていた藩主たち。数百年後のその地の姿をどんなものと想像していただろうか。

左・後楽園、左手前・後楽園駅、右・礫川公園、右奥・中央大学

東京メトロ・後楽園駅

中央大学・後楽園キャンパス

トヨタ東京本社ビルなど

日中友好会館

文京区役所

講道館本部

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