地理学徒の語り

Geographer's Tweet

地理学徒の語り INDEX

★最新  プロ野球・球場跡地紀行 - 関東編

lonely-geographer.hatenablog.com

茨城県

    万博 ー EXPO'85つくば科学万博跡地を行く

 筑波

栃木県

 日光東照宮

群馬県

 榛名山・伊香保

 碓氷峠と横川 ー 群馬・長野県境

埼玉県

    所沢

 大宮

千葉県

    松戸

★人気No.2  佐倉と佐原

 安房

首都圏広域

★最新 プロ野球・球場跡地紀行 - 関東編

東京都

    神宮球場界隈

    東京ドーム界隈

    深川 - 芭蕉・奥の細道出立の地

    築地 - 江戸・明治東京のウォーターフロント

 両国

 竹芝桟橋 ー 伊豆・小笠原諸島を想う

 大使館と坂

 東京ヤクルトスワローズ ー 球団の地域戦略

神奈川県

    浦賀と久里浜

    川崎と鶴見

静岡県

 静岡 ー 製茶の街

    遠州鉄道

 大井川流域 ー 中上流編

 大井川流域 ー 下流編

 白須賀宿 ー 静岡・愛知県境

 静岡 ー 家康の遺産

 浜松 ー 日本最大のベンチャー都市

愛知県

    万博 ー EXPO'2005愛・地球博跡地を行く 

 一宮市

 豊川市

岐阜県

 大垣

★人気No.5  滋賀・岐阜県境

三重県

    

 三重・和歌山県境

福井県

    福井

    三方五湖と熊川宿 ー そして市町村合併

 舞鶴若狭自動車道 ー その名称について

 敦賀 ー 新幹線開業直前

滋賀県

    草津市の街道

    琵琶湖テラスの眺望

 長浜

 大津市の東海道

★人気No.5  滋賀・岐阜県境

京都府

    伏見稲荷と東福寺

    京都・山科疎水の秋

    京都・大枝と大原野の秋

    京都・三条通

 長岡京市

 福知山

    天王山・山崎・島本 ー 京都・大阪府境

 京都・北野界隈の桜

 桃山

 日本三景・天橋立

 下鴨

 深草

    上賀茂

 京都の高校野球

 舞鶴西港と西舞鶴

 向日市

 東舞鶴 ー 帝国海軍の遺産

 綾部

 城陽

    橋本・樟葉 ー 京都・大阪府境

 男山・石清水八幡宮

 三川合流の地(木津川・宇治川・桂川)

 京北 ー 平成の大合併を考える

 京都市営地下鉄 ー 路線名と駅名

 舞鶴若狭自動車道 ー その名称について

関西広域

 関関同立のキャンパス 

 オリックスバファローズ ー 球団の地域戦略

 北陸新幹線 敦賀以西延伸ルートについて

大阪府

    大阪都構想 ー 地理的視点から

    大阪・天王寺界隈

 大阪リバークルーズ ー 中之島・大阪城・桜宮

    大阪ベイクルーズ ー 天保山・咲洲・舞洲・夢洲

    天王山・山崎・島本 ー 京都・大阪府境

    万博 ー EXPO'90花博跡地を行く

    万博 ー EXPO'70大阪万博跡地を行く

 大阪大学のキャンパス ー 豊中・吹田

★人気No.4  大阪大学のキャンパス ー 中之島

 星のまち・交野

 大阪南港 ー 大型フェリーターミナル

    橋本・樟葉 ー 京都・大阪府境

 石切神社

 枚岡神社 ー 河内国一宮

奈良県

  奈良・藤原宮跡の桜

  宗教都市・天理

和歌山県

    和歌山 - 紀伊徳川家の遺産

 三重・和歌山県境

兵庫県

    兵庫・岡山県境 - 赤穂市福浦地区

    赤穂と相生 - ② 相生

    赤穂と相生 - ① 赤穂

    三田

 丹波市と丹波篠山市 ー その市名について

★人気No.3  水分れ ー 中央分水嶺最低点

 淡路島

岡山県

    津山

    兵庫・岡山県境 - 赤穂市福浦地区

    水島 ー 製鉄所のある街

    福山・笠岡 - 製鉄所のある街

鳥取県

    倉吉

広島県

    福山・笠岡 - 製鉄所のある街

長崎県

 佐世保  ー 弓張岳から

沖縄県

    慶良間諸島

海外

    アラブ産油国 ー 万博パビリオンから

    トルクメニスタン ー 万博パビリオンから

 グリーンランド

その他

    大阪関西万博の外国パビリオン

★人気No.1  フィリピン海 ~ 知ってますか?

プロ野球・球場跡地紀行 - 関東編

 「駒沢球場」という野球場は御存知だろうか。世田谷区にある駒沢オリンピック公園は、1964年の東京オリンピックの競技会場として整備された複合運動公園だが、このオリンピック会場建設のために取り壊されたのが、ここにあった駒沢球場である。この球場は、1953年、東急電鉄が、自社系列のプロ野球団・東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズの前身)の本拠地として建設したもの。自社鉄道線の沿線に球場を建設してプロ野球を興行、観客を呼び込んで旅客の増大を図るという、阪急や阪神など関西の私鉄で先行していたビジネスモデルを真似たものだ。

駒沢球場跡地に建つ駒沢オリンピック公園第二球技場

 当時の駒沢は、まだまだ田畑が残る郊外で、如何せん都心から距離があり過ぎた。目論み通りには観客は入らなかったようだ。1962年には、オリンピック競技施設建設のため、あっけなく取り壊されている。辺り一帯は広大なオリンピック公園となり、競技場や体育館などが多数建設され、球場のあった場所には第二球技場が建てられた。(現在、駒沢オリンピック公園には野球場があるが、これは別の位置にオリンピック後に建てられたもの)

同上

 では、「東京スタジアム」は御記憶にあるだろうか。1962年、現プロ野球ロッテの前身である大毎オリオンズの親会社・大映が開設した、プロ野球専用球場である。それ以前のオリオンズは、巨人軍などと後楽園球場東京ドームの前身)を共用で本拠地として使用していたので、その専用球場を建設したのである。場所は荒川区南千住。

東京スタジアム跡地の荒川区施設

 いわゆる下町の住宅街に突如として出現した最新鋭の近代的スタジアム。物珍しさで初年度こそ観客を集めたようだが、その後はジリ貧。奇しくも時は巨人軍V9の時代。成績もパッとしないオリオンズの試合を観に行く人は稀だった。開場からわずか10年、1972年に閉鎖となった。現在は区のスポーツ施設や警察署などが建ち、跡形もない。

同上 背面のグランド

 川崎球場なら、まだ記憶にある方も少なくないのでは。京浜工業地帯の川崎は、大手メーカーの工場が集積し、それらメーカーの野球部の活動が盛んな土地柄だった。そこで、社会人野球の拠点とすべく、日本鋼管(現JFE )、東芝、味の素など地元メーカーの出資により開設されたのが川崎球場である。1952年のことだった。折しも当時は首都圏で後楽園球場以外にプロ野球で使用できる球場が不足していたから、早速1955年から大洋ホエールズ(現DNA)が本拠地として使用。大洋球団が横浜へ移転した後1978年からは、東京スタジアムを失ったロッテオリオンズが本拠地とした。

川崎球場跡地に建つ川崎富士見球技場

同上隣接施設にある川崎球場メモリアルコーナー

 当時のパ・リーグの球場はどこもそうだが、川崎球場も御多分に漏れず閑古鳥。改修もされず、老朽化進むに任せる状態だったが、張本勲の3000本安打や落合博光2年連続三冠王など大記録も生んだ。この球場で最高のメモリアルは何と言っても「10.19」だろう。1988年、優勝目前の近鉄バファローズが、ファンで溢れかえる球場でロッテとの一戦に臨んだが勝てず、優勝を逃した一件だ。1992年にロッテが千葉へ移転した後はアメフトの試合などに利用されたが、2000年にスタンド取り壊し、後継施設としてアメフト仕様の「川崎富士見球技場」が開設されている。

アメフト試合中の川崎富士見球技場内

INDEXページへ

 

伏見稲荷と東福寺

 5月はじめの新緑の季節、伏見稲荷大社と東福寺を訪れてみた。二つの社寺の間の距離は1.5kmほど。数ある京都の有名社寺の中では、隣同士と言ってもよい。超有名どころ。これらの社寺自体については多くの説明を要しないだろう。

おなじみ、伏見稲荷・千本鳥居

 まずは伏見稲荷。比叡山から大文字山、八坂神社や清水寺の後背の山々を経て、伏見の桃山まで連なる東山連峰。その一角である稲荷山(標高233m)の山裾から山頂にかけて境内が展開している。楼門や本殿、観光客に人気の千本鳥居、おもかる石などは山裾に、山頂部には、この神社の原初といわれる上之社などの社が点在している。本殿、楼門、大鳥居の配置ラインは、稲荷山を背にして西向き、つまり傾斜の高い方から低い方を見下ろす形である。

楼門。奥に外拝殿、本殿

外拝殿。奥に本殿、その背後に稲荷山

 さて、この伏見稲荷、行政区上は伏見区だが、元来の伏見の町にあるわけではない。伏見とは数kmの距離があり、歴史的に別の経緯で発展してきた深草地区にある。なのに、なぜ深草稲荷ではなく、伏見稲荷なのか。不思議に思っていたのだが、どうやら簡単な理由らしい。1946年までは、「伏見」を冠さず、単に稲荷神社だったそうだ。名が次第に全国区になるにつれ、どこの稲荷なのか明確にする必要が出て、伏見を冠するようになったとのこと。ローカルすぎる「深草」ではなく、より名の通っていた「伏見」を選んだようだ。

賑わい過ぎる参道

 続いて東福寺。伏見稲荷が季節に関係なく観光客で溢れかえっているのに対して、新緑の時季、紅葉の名所の東福寺は静かだ。青もみじが映えて、私は好きだが。紅葉シーズンには、ここも人が溢れる。

臥雲橋から望む通天橋と青もみじ

 東福寺も東山連峰の山裾に展開。三門から本堂へと続くラインは南北方向、つまり、この寺院は南向きに建てられている。傾斜の方向は伏見稲荷と同じく東西方向だが、土地の傾斜とは関係なく、南面することを優先して設計されたのは明かだ。私の観察では、社寺の多くは、傾斜の高い方から低い方を見下ろしているか、南向きか、の2パターンのどちらかである。どういう場合にどちらのパターンになるかという法則性はまだ発見できていない。神社と寺院による違いかといえば、そうでもない。同じく東山連峰の山裾にある八坂神社は南向き、清水寺は下を見下ろすパターンだ。

三門。南向き。奥に本堂。

 京都の東寺に対して、かつて西寺があった。奈良の東大寺に対しては西大寺があった。では、東福寺に対して、西福寺もあったのかと考えた。どうやら、それはなかったようだ。東福寺の名は、東大寺と興福寺から一文字ずつ借用したものとのことだ。(実は西福寺という寺は京都に存在するが、命名の由来は東福寺と関係なく、東福寺と対で建立されたものでもない。)

本堂

本堂の天井に描かれた「蒼龍」(堂本印象・1933年作)

 最後に、伏見稲荷と東福寺の最寄り鉄道について。伏見稲荷・東福寺の最寄り鉄道は、京阪電鉄とJR奈良線である。伏見稲荷の最寄り駅は京阪電鉄が伏見稲荷駅、JRは稲荷駅。京阪伏見稲荷駅は神社から数百mの距離があって、その間の道沿いには店が並び、観光客でごった返している。JR 稲荷駅は大鳥居と道路を挟んだ目の前。駅を出た客はそのまま神社へと吸い込まれていく。東福寺の最寄り駅は京阪・JR とも東福寺駅。寺から少し離れた所に両社の駅が平行して並ぶ。

京阪伏見稲荷駅

JR 稲荷駅は神社の目の前

 京阪電鉄は、大阪と直結していて、この方面からのアクセスがよく、また、清水寺、祇園、平安神宮など京都の他の名所との周遊にも便利。一方のJR は京都駅発着だから新幹線や関空特急利用の観光客に利便性が高い。資料によれば、伏見稲荷でも東福寺でも、停車本数、乗降客数とも、JR に軍配が挙がっている。

東福寺駅。手前・京阪、奥・JR

INDEXページへ

 

草津市の街道(滋賀県)

 4月下旬の時期、滋賀県草津市の志那地区の三つの寺で藤の花が咲き誇っている。三大神社、志那神社、惣社神社。三つの寺はいずれも徒歩圏内。市により藤の神社巡りのキャンペーンが行われている。出店の店番や駐車場係などが地元自治会の人たちというローカル感がまた良い。

三大神社

志那神社

惣社神社

 さて、滋賀県の草津といえば、この地の江戸時代の街道に触れないわけにはいかない。京の都を出て東海道を江戸へ向かう場合、二つ目の宿場が草津だった。ただ草津は普通の宿場とは違う。この地で、東海道と中山道という江戸・上方間の当時の二大幹線が分岐・合流していた。そのため、宿場町は他よりも一際大きかった。今も本陣などいくつかの建物が残るが、マンションが建つなどして歯抜けになり、大きな宿場だった割には、往時の風情を感じられる部分は比較的少ない。

草津宿街道交流館の掲示

草津宿本陣

草津宿の東海道

東海道沿いの立木神社でも藤の花が。

東海道・中山道の分岐・合流点にあるマンホール蓋

分岐・合流点。左・中山道、右・東海道(江戸方面)
中央に道標、左手の高架は旧草津川の河道

旧草津川河道上から分岐・合流点を見下ろす。
左から来るのが東海道(江戸方面)、直進は東海道(京都方面)

旧草津川河道を潜った先の中山道

 今、東海道と中山道の分岐・合流点のすぐ側で旧中山道は短いトンネルを潜っている。何を潜っているかといえば、川である。今は、河道が別の所に付け替えられて、廃川(2002年)となって水はないが、以前は本当の川だった。この草津川はじめ、この辺りのいくつかの川は「天井川」といって、周囲の土地よりも河道の方が高くなっている。土砂が堆積して川床が高くなる。氾濫を防ぐため堤防を築く。また土砂が堆積する、さらに堤防を高くする。この過程を繰り返して形成されたものだ。草津の旧宿場町付近では二階建て家屋の屋根よりも河道が高い。もっとも、江戸時代はまだ後の時代よりも河道は低く、渡しで川を渡っていた。

旧草津川の河道。遊歩道型の公園になっている。

 さて、この草津宿を出て東海道を京都方面へ進むと、矢橋(やばせ)道という街道が右手に分岐していた。この分岐点からそのまま真っ直ぐ行けば、東海道は琵琶湖の南端を迂回する形で瀬田の唐橋を渡り、次の大津宿、そして京都に至る。このように琵琶湖を迂回する分の遠回りを避けるため、矢橋道に入って琵琶湖岸に出て、そこの湊から舟で対岸の大津へと渡るバイパスルートがあった。「急がば回れ」という諺の由来となったとされるルートである。

東海道・矢橋道(右)分岐点
江戸時代、角に名物「姥が餅」の茶店があった。

矢橋道

矢橋の湊・石積突堤跡。左奥には常夜灯も残る。

矢橋港遠景

矢橋港から沖を望む。
面前に帰帆島(人工)が造成され対岸の大津は見えない。
大津の背方にある比叡山が見えている。

INDEXページへ

 

 

神宮球場界隈

 前回、東京ドーム界隈を巡った。今回は、東京のもうひとつのプロ野球本拠地球場である神宮球場とその周辺を歩いてみた。

神宮球場・正面

神宮球場・バックスクリーン裏

神宮球場を所有する明治神宮

 神宮球場は、正式名称が明治神宮野球場であるように、宗教法人・明治神宮が所有する球場。プロ野球・ヤクルトスワローズの本拠地球場で、同球団初のリーグ優勝決定(1978年)、村上宗隆選手のプロ野球記録・シーズン56号ホームラン(2022年)もこの球場でのこと。今や、神宮球場といえばスワローズの感があるが、実は、1960年代まで、明治神宮はこの球場のプロ野球の使用を認めなかった。お堅い神社としては、興行性のものとは一線を画すというのが理由だったようだ。

左翼後方に国立競技場が見える。
クレーンは新秩父宮ラグビー場建設工事

スワローズ選手クラブ(球場隣接)

 神宮球場の開場は1926年。東京ドームの前身、後楽園球場よりも随分と早い。当時人気を博していた早慶戦、そして東京六大学野球の会場とするため、後述する明治神宮外苑の一施設として開設された。以来、学生野球の聖地と言われるまでになった。プロ野球に解放後も、この地位は変わらず、東京六大学野球の他、東都大学野球リーグ、全日本大学野球選手権、明治神宮野球大会、高校野球地方大会など、アマチュア野球の利用が盛んである。

東京六大学野球発祥の地の碑(球場外縁)

 神宮球場を含む明治神宮外苑は、明治天皇の記念公園として、当時の国家的事業で建設されたもの(そもそも明治神宮本体(内苑)が明治天皇を祭祀する官営神社として創建)。現在までたくさんのスポーツ・文化施設が設置されている総合公園。国立競技場は、同じ場所にあった明治神宮外苑競技場がルーツ。大平洋戦争中、出陣学徒の壮行式が行われた所だ。秩父宮ラグビー場は我が国ラグビーフットボールの聖地。(厳密には上記二つは現在は国立で明治神宮所有ではない。)他に、軟式野球グランド6面、バッティングドーム、テニスコート、室内球技場、ゴルフ練習場、アイススケートリンクなどなど、列挙しきれないほどの施設がある。かつては相撲場や水泳場もあった。

国立競技場

かつての明治神宮外苑競技場の写真
(秩父宮記念ギャラリーの展示から)

出陣学徒壮行の地の碑(国立競技場外縁)

国立秩父宮ラグビー場

軟式野球グランド

バッティングドーム

室内球技場

アイススケートリンク

 外苑にある様々な施設の中で、当初の外苑設立目的からいって最重要施設は、聖徳絵画記念館だろう。明治天皇の生涯の各場面を描いた絵画を展示する。外観はドーム屋根が印象的な左右対象の重厚な石造り。その正面に続く銀杏の並木は、外苑開園当初からのもので、外苑の代表的な景観となっている。現在、結婚式場として営業している明治記念館も明治天皇関連施設。明治憲法草案審議の天皇御前会議が行われた赤坂御苑の殿舎が移築されたものだ。

聖徳絵画記念館(右側は修繕中)

絵画記念館前の銀杏並木

明治記念館

 さて、神宮外苑は、だだっ広い陸軍青山練兵場の跡に造成されたものである。練兵場には明治天皇が閲兵に何度か訪れた。その際にその下に天皇の御座が置かれた榎が外苑の杜の中で記念物となっている。明治天皇崩御の際には練兵場で大喪礼が行われた。その葬場殿の跡地は絵画記念館の裏手。(なお、明治天皇の御陵は京都の桃山

明治天皇御観兵榎

明治天皇大喪礼の葬場殿跡

 練兵場の隣接地には他にも陸軍施設が構えていた。西側、現在の都立明治公園、日本青年館、日本オリンピック委員会本部や國學院高校のある一帯には、近衛歩兵聯隊駐屯地。なお、日本青年館は、明治神宮及び外苑の建設に奉仕した全国の青年会の功績に報いて開設されたもの。東側にあった陸軍大学校の跡地には現在、区立青山中学校などが建つ。

近衛歩兵連隊跡の碑(都立明治公園)

日本青年館

日本オリンピック委員会本部

國學院高校

区立青山中学校

INDEXページへ

東京ドーム界隈

 球春到来。プロ野球が開幕した。ということで、プロ野球のメッカ、東京ドームとその周辺を巡ってきた。

 東京ドームは、1988年に開業した我が国最初のドーム型野球場。言わずと知れた読売巨人軍の本拠地スタジアム(2003年までは日本ハム球団も本拠地として使用)。プロ野球の他には、国際大会のWBC、社会人の都市対抗野球大会などの試合が開催される。野球以外ではアメリカフットボール「ライスボウル」など、さらに国内有数のコンサート会場でもある。野球殿堂博物館が併設されていて、我が国野球の栄光の歴史を学ぶことができる。

東京ドーム・長嶋ゲート

ジャイアンツショップ

野球殿堂博物館

球団のユニフォームなどと日本シリーズ優勝杯
(野球殿堂博物館の展示)

野球殿堂入り各氏のレリーフが並ぶ。
(野球殿堂殿堂博物館の展示)

WBCの優勝トロフィーやユニフォームなど
(野球殿堂博物館の展示)

社会人野球「都市対抗野球大会」
(野球殿堂殿堂博物館の展示)

太平洋戦争で犠牲となった野球選手の鎮魂碑

 東京ドームは、この球場を中核とするエンターテインメントパーク「東京ドームシティ」の中にある。「ATTRACTIONS」などの遊戯施設、スパ施設などの「La Qua」、複合商業施設「MEETS PORT」、東京ドームホテル、プロレスやボクシングの聖地「後楽園ホール」、ボウリングその他の屋内スポーツ施設、場外馬券売場等々、多数の施設で構成される東京ドームシティは、時代の変化に応じて、その施設構成を刷新してきた。

ATTRACTIONSとLa Qua

MEETS PORT

東京ドームホテル

後楽園ホールビル

多様なアミューズメント施設が入る「黄色いビル」

 東京ドームもこの地の野球場としては二代目である。東京ドーム開場以前には、現在、東京ドームホテルやプリズムホールの建つ辺りに「後楽園球場」があった。この球場の老朽化に伴い、隣にあった競輪場を解体して、後継球場の東京ドームが造られたという経緯。後楽園球場は、太平洋戦争前の1937年の開場。前年に始まったプロ野球の東京での主会場として建設された。東京でプロ野球の試合を開催できる球場が不足していたことから、1960年代まで5球団が本拠地とし、まさにプロ野球のメッカ。その後も読売ジャイアンツの全盛期に大観衆の前で数々のドラマが繰り広げられた。長嶋茂雄の引退セレモニー、王貞治の世界記録756号ホームランも後楽園球場だった。

後楽園球場跡地一帯

後楽園球場の復元模型
(野球殿堂博物館の展示)

王貞治756号ホームラン記念碑
(野球殿堂博物館の展示)

 さて、後楽園球場は、関東大震災で被災して移転した陸軍工廠の跡地に建設されたものだが、明治維新で陸軍用地となる以前、江戸時代には、水戸藩上屋敷の敷地だった場所。代々の水戸藩主が暮らした屋敷である。現在、東京ドームの西隣に有名な庭園「後楽園」がある。後楽園は、水戸藩屋敷の庭園として、江戸時代初期、初代藩主から二代・光圀公の時代にかけて造成されたもの。陸軍用地となっても庭園だけは残された。訪れれば、最高級の大名庭園の風情を堪能できる。

後楽園・正門

後楽園の創設者・徳川頼房と光圀

背景に東京ドームも後楽園らしくて良い。

唐門と内庭。左端は陸軍工廠跡の碑

光圀公が農民の労苦を親族に体験させるために設けた稲田が今に続く。

庭園外塀の石積は江戸城の堀の石を再利用

 さすがに徳川御三家・水戸藩の上屋敷はとても広大だった。後楽園はもちろん、現在の東京ドームシティの全て、さらに周辺の東京メトロ後楽園駅、区立礫川公園、中央大学後楽園キャンパス、トヨタ東京本社、日中友好会館も含み、さらには文京区役所や柔道の総本山・講道館の一部にまで及んでいた。この屋敷に暮らし、庭園を愛でていた藩主たち。数百年後のその地の姿をどんなものと想像していただろうか。

左・後楽園、左手前・後楽園駅、右・礫川公園、右奥・中央大学

東京メトロ・後楽園駅

中央大学・後楽園キャンパス

トヨタ東京本社ビルなど

日中友好会館

文京区役所

講道館本部

INDEXページへ

 

深川(東京都江東区) - 芭蕉・ 奥の細道出立の地

 春は旅立ちの季節。此処ではないどこかへ行ってみたくなる折柄。300余年前、そんな春のある日に旅に出た人がいる。江戸時代の俳人・松尾芭蕉である。1689年旧暦3月27日(新暦5月16日)のことだった。

「そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、」(松尾芭蕉『奥の細道』序文より)

自分の中の旅心が沸々とわいてきて、とにかく旅に出たくてたまらなくなり、芭蕉は旅に出た。代表作の紀行俳句集『奥の細道』を産み出した旅である。

 当時の芭蕉の住処は、江戸の深川だった。江戸時代初期、そこは隅田川河口の湿地帯で、深川という名の者によって開拓されて、ようやく村ができ、やがて街になった土地。排水と水運のための人工水路が縦横に巡る一帯で、低湿な土地柄。大潮の時に家屋の門前まで潮が洗う様子を詠んだ句を芭蕉が残している。

「名月や門にさしくる潮がしら」

小名木川(水門は新小名木川水門)

 芭蕉庵は、隅田川と小名木川(人工)の合流点の畔にあった。この付近数百mの範囲内で数回転居したらしいが、出立の時の住処の場所には現在、芭蕉稲荷神社が建っている。芭蕉愛玩の石の蛙がここで発見されたことが庵跡の根拠だそうだ。超有名な一句もここで詠まれたらしい。

「古池や蛙飛びこむ水の音」

隅田川と小名木川の合流点

芭蕉稲荷神社(芭蕉庵跡)

芭蕉愛玩と伝わる石の蛙(芭蕉記念館の展示)

 この付近には隅田川対岸の日本橋方面と繋がる橋が架かっていた。江戸の中心部と隅田川東岸を繋ぐ橋としては両国橋があったが、この両国の大橋に次いで新たに架けられた橋で、「新大橋」と名付けられた。まさに芭蕉が居を構えていた時期に架橋されたもので、その完成時の気分を句に詠んでいる。

「ありがたや いただいて踏む橋の霜」

現在の新大橋。旧「新大橋」跡より数百m上流

 さて、芭蕉は、奥の細道の旅への出発にあたり、住居を引き払って、人に譲っている。そして、引き払う前に後の事を想像したのか、引き払った後に訪れた時の情景なのか、次の句を詠んで、庵の柱に掛け置いたという。

「草の戸も住替る代ぞひなの家」

芭蕉記念館の句碑

 こうして、旧居を後にした芭蕉は、旅立ち前のしばらくの間、同じく深川にあった門下の別荘に居候して、ここで旅支度している。そこは採茶庵という庵で、仙台堀川(人工)に架かる海辺橋の辺りにあったとされる。芭蕉庵から清澄庭園(元武家屋敷、後に三菱創業家・岩崎家の庭園)を挟んだ数百m南になる。今、海辺橋の袂には、採茶庵を再現した感じの小屋と、まさに出発のため腰を上げんとするかのような旅装束の芭蕉の像がある。

清澄庭園

仙台堀川

採茶庵跡

 奥の細道の旅の出発は舟だった。まず日光・奥州街道の宿場町だった千住まで、隅田川を遡ったのである。出立の地となった隅田川の川沿いには、いくつも芭蕉の句碑が建つ遊歩道が整備されている。ここから、芭蕉も見たに違いない川の眺めを望むことができる。

 なお、奥の細道の旅の終着地・岐阜県大垣、芭蕉の墓所・義仲寺の滋賀県大津については別稿を御参照。

INDEXページへ

津山(岡山県)

 岡山県の北部の地域は、かつて美作国だった。中国山地の直中にあり、海に面していない内陸の山国である。そんな美作国の中央部には比較的大きめの盆地が開けていて、美作国が設置された古代から、この盆地が国の中心だった。国府や国分寺、総社など古代の国の中枢施設が盆地の中の少し高い(洪水の心配がない)所に置かれていた。

美作国府跡に建つ「国府台寺」

美作国分寺の復元模型(津山郷土博物館の展示)

美作国分寺跡

国分寺跡地の一角に建つ「国分寺」

「国分寺」の境内に古代の国分寺の礎石。庭石に活用。

美作国分尼寺跡

美作国総社「美作総社宮」

美作国一宮「中山神社」

 この盆地は現代では津山盆地と名付けられている。美作地方の現代の中心都市・津山があるからだ。津山の街は、江戸時代初期に立藩した津山藩の城下町が起源。津山城趾は、丘と呼ぶべきか、山というべきか、その中間ぐらいの高地に展開している。立藩当初18万石、その後は10万石以下の石高の藩の城郭にしては、かなり大規模に思う。城下町から天守台のある最上段まで、かなり高低差のある城郭だが、ここに築かれた石垣が壮観。三段ほどの石垣の各段それぞれが高い。

津山城の復元模型(津山郷土博物館の展示)

以上、津山城趾

津山藩別邸庭園「衆楽園」
城から数百m離れた城下にある。

 残念ながら天守閣は残っていないが、天守台のある城郭の最上段まで登ると、津山の街が一望でき、さらに市街の外側には、360度、盆地を取り囲む山々の稜線が取り巻いている様子を目にできる。四方の山々は、それほど高いとは感じられない。これらの山々の稜線の所々低くなった部分が、盆地の外と繋がる交通路として古来から利用されてきたことまで想像できる。実際、津山の街は、これら交通路の結節点として発達したところが大きい。

津山市街中心部(城趾から)

多方面に道路が通じる。

 まず、出雲街道。畿内・上方から来る街道は、津山盆地の東側から入って、津山の城下町に至る。この街道に沿って続く城東地区の街並みは、古い商家がよく残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。出雲街道は、城下町を貫いて、西方彼方の出雲大社を目指すが、城下町の西側・城西地区の街道沿いも重要伝統的建造物群保存地区である。

城東地区(城趾から)

以上、城東重要伝統的建造物群保存地区の出雲街道の街並み

出雲街道は城下町中心部ではアーケード街に

市街にある出雲街道の宿場を示した壁画

城西地区(城趾から)

以上、城西重要伝統的建造物群保存地区の出雲街道の街並み

 南方はといえば、県都の岡山方面へと続く交通路。かつては津山往来という街道で、現代は国道53号線。この方面へは水運もあった。津山盆地から流れ出て瀬戸内海へ下る吉井川の流れである。城下町の川辺に湊があって、浅瀬でも航行可能な高瀬舟が通じていた。

市街中心部「ごんご通り」の高瀬舟のオブジェ

高瀬舟の川湊跡付近の吉井川

 北側は、瀬戸内海側と日本海側を分ける中央分水嶺を越える交通路になる。県境を越えて今の鳥取県へ向かう道である。北東へは鳥取県都の鳥取市に通じる因幡道(現国道53号)。北西へは鳥取県中部の倉吉に向かう倉吉往来(現国道179号)。この街道が、県境でもある中央分水嶺を越える箇所の峠は津山市外になるが、人形峠という。我が国では希少なウラン鉱で有名な所。その博物館施設が峠にあるので訪れようとしたが、時期が悪かった。2月下旬、施設に続く峠の旧道は積雪で閉ざされていて通行不能だった。

城趾から北東・鳥取市方面

城趾から北西・倉吉市方面

国道179号 人形峠(岡山県側)

国道179号 人形峠(鳥取県側)

 津山は、道路だけでなく、四方に続く鉄路の結節点ともなっている。出雲街道とほぼ同じルートの鉄道は姫新線。東方、兵庫県の姫路から来て、西側の岡山県内の新見へと向かう路線だ。南へは県都の岡山市と繋がる津山線。日本海側へは因美線が鳥取市に通じている。JR 津山駅は、駅舎こそ小さいが、結節点だけに、多くの滞留線があって構内は広い。その構内の外れには、蒸気機関車時代から使われてきた貴重な扇形車庫と転車台が残っていて、今は展示施設となって、多くの人を引き付けている。

四方面に列車が出るJR 津山駅

津山駅構内

扇形車庫と転車台(津山まなびの鉄道館)

INDEXページへ