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大阪都構想 - 区割り案について

 大阪市を廃止して、代わりにいくつかの特別区を設置する大阪都構想。その特別区の区割り案が、2026年8月、都構想を検討する大阪府市協議会で正式に決定された。2020年の住民投票で否決されたのとほぼ同様の4特別区とする案だ。新大阪、梅田、難波、天王寺をそれぞれの核として、ひとつの特別区が政令指定都市並みの約70万の人口を持ち、地域の繋がり等を考慮した区割りとのこと。(下記図①)

梅田

天王寺

 ひとつの特別区がこれぐらいの規模となれば、特別区内で中心と周縁という周圏構造が現れるから、特別区内の各地域からそれぞれの核となる地区への結び付き、特に交通体系上での連絡が重要となる。通勤通学や買い物、お出かけなど日常の繋がりが、「我が街」という区民意識を生む。特別区は自治体だから、なおさらこの意識が大切だ。単に隣接するからということで同一の特別区とするのは問題で、往き来がないと実質的な面で一体化できないことになる。この観点から難ありと私が思うのは、新大阪を核とする特別区(以下仮に「新大阪区」という。)である。

図① 協議会の区割り案

 「新大阪区」(図①中の青)は、現在の東淀川区、淀川区、西淀川区、此花区からなる。このうち此花区は、新大阪とは淀川を隔てた対岸にあり、鉄道や主要道路でも直接には通じていない。交通体系上は此花区はむしろ梅田(現・北区)に繋がっている。そして西淀川区も、新大阪のある淀川区に隣接するものの、区内主要路線の阪神やJR が向かう先は梅田である。このような状況で「新大阪区」が実現した場合、此花や西淀川の人は、心は梅田だけど、行政上は仕方なく新大阪。「新大阪区」は自治体として一体性のない寄せ集めになってしまう。

USJ(現・此花区)

 では、どうすればいいか。対案(下記図②)を考えてみた。現在の中央区は、1989年まで、淀屋橋、本町などの東区と、心斎橋、難波などの南区に分かれていた。そこで、現・中央区をかつてのように再分割。「新大阪区」に代えて、旧・東区を核とする「本町区」(図②中の青)を設定してはどうか。核となる淀屋橋・本町、京橋と大阪メトロや京阪電鉄線で結ばれている現・都島、城東、鶴見区などの市北東部地域を範囲とする特別区である。協議会案の「新大阪区」は全て「梅田区」(図②中の赤)に統合する。「梅田区」、「本町区」、「難波区」(図②中の黄)、「天王寺区」(図②中の緑)の4特別区間の人口バランスも、協議会案よりもよい。いかがだろうか。

図② 私案

淀屋橋界隈(旧・東区、私案「本町区」)

心斎橋筋(旧・南区、私案「難波区」)

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鎮海(韓国) - 帝国海軍の遺産

 韓国の南海岸には半島と小島と湾が超複雑に入り組んで続いている。そのリアス式海岸の真っただ中、深い湾の奥に鎮海(ローマ字表記「Jinhae」、韓国語読み「チネ」)の街はある。現在人口約20万。2010年まで単独の市だったが、隣接の市と合併して昌原市鎮海区となっている。

鎮海湾
画角中央奥に鎮海の街

 実は、日本による韓国統治が始まる1910年まで、ここに街はなかった。田畑といくつかの集落があるのみだった湾奥の小平野に市街ができる契機となったのは、ここに日本帝国海軍の軍港が築かれたことである。鎮海に置かれたのは要港部といって、海軍の最大級の軍港である鎮守府(横須賀、呉、佐世保舞鶴)よりも小規模だったが、それでも一つの街を産み出す経済効果があった。

1911年の鎮海市街地図(鎮海博物館の展示から)

 軍港は海軍が建設したのは勿論だが、市街も海軍が計画的に整備したものだ。ロータリーから周囲へ伸びる放射路と縦横の直交路を組み合わせた特徴的な街路が計画的に造成された。市街建設地に元々住んでいた韓国人は郊外の韓国人居住区に移住させられた。できあがった市街は日本人町で、日本本土と変わらない町並みと暮らしがあったと思われる。

兜山から望んだ1930年代の市街(鎮海博物館の展示から)
中辻(中央のロータリー)には榎の大木があった。

兜山頂上にあった日本海海戦記念塔
(鎮海博物館の展示から)

 1945年の太平洋戦争敗戦で日本による統治は終了、日本人が引き揚げると、当たり前だが街は韓国人のものとなる。軍港は韓国海軍の基地となり、海軍指令部(2007年に釜山に移転)や海軍士官学校も設置されて、鎮海は、大韓民国下でも引き続き軍港都市であり続けている。海軍地区は市街よりも広大で、日本時代と同じく一般人立ち入り禁止。正門に近い北園ロータリー(日本時代は北辻)には、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本水軍を破った李舜臣将軍の巨像が建つ。軍港都市にふさわしく、韓国で最初に建てられた同将軍像だという。

海軍地区正門前(帝国海軍時代と同じ場所にある。)

海軍士官学校

海軍官舎の高層アパート群と福利施設「海軍の家」

北園ロータリーの李舜臣将軍像
後方の高層アパート群は海軍官舎

 そんな経緯を持つ鎮海の街を訪れたのは8月15日。日本では終戦記念日だが、韓国では「光復節」といって、日本統治からの解放を祝う日である。ナショナリスティックな高揚に包まれているのではと一抹の不安を持っての訪問だったが、拍子抜けするほど街は静か。街路に国旗が飾り立ててある程度で、特別な様子はなかった。

日本時代の家屋がよく残る鎮海の町並み
静かな光復節の午後

 街を見下ろす帝皇山という小高い山に登った。日本時代には兜山という名で、頂上に日露戦争の日本海海戦の戦勝記念塔があったという。その記念塔に代わって独立後に建てられた展望塔に登った。ロータリーを中心とする日本時代の街路がそのままの形で残る市街、その向こうに艦艇の停泊する軍港を望むことができた。山の反対側には、かつて韓国人居住区だった地区を含む住宅地が広がっている。

中園ロータリーから望む帝皇山
頂上に展望塔「鎮海塔」と鎮海博物館がある。

鎮海市街
中園ロータリーを中心とする街路は日本時代のまま

慶和洞地区(画角中央奥の市街)
日本時代、韓国人居住区だった。

 日本時代には中辻、今は中園という、街のヘソとなっているロータリーに面して建つ郵便局の庁舎は、日本時代のものがそのまま残る。鉄道も日本が敷設したもので、鎮海駅舎が残されている。そして、街を歩けば、そこかしこに日本式家屋が目につく。用途は変わったり、建て増しされたり、塗装されたりしているが、特徴的な屋根の形などで素人目にも日本時代のものと分かる。こうした家屋が連続する一画では、今の日本の下町の風景と同じような感覚を受ける。

郵便局庁舎

鎮海駅舎

海軍地区構内へ続く鉄路

以上、残存する日本式家屋

 市街を南北に流れる余佐川。日本時代の都市計画で一直線の流路に整備された川だが、当時、桜の名所であった。独立後、日本の象徴であるとして、桜は全て伐採されたといわれる。その後、名所復活を目指して再び植樹され、川沿いの桜並木は今や鎮海を代表する観光スポットとなっている。その側の日本人が通った鎮海高等女学校があったその場所には鎮海女子高校がある。メインの校舎はカラフルに塗り替えられているが女学校時代のものと思われる。

余佐川沿いの桜並木

鎮海女子高校(旧鎮海高等女学校)

旧日本帝国海軍の官舎跡地に建つ競技場

 釜山などの大都市でも残存する日本時代の家屋がみられるが、鎮海では市街地の新陳代謝が比較的緩やかだったと思われる。街全体がそっくりそのまま日本時代の様子をよく残している。横須賀など日本の旧軍港都市よりも帝国海軍時代の風情を感じられるかもしれない。桜のシーズンには日本からの観光先としても注目されつつあるようだが、桜に限らず、我々日本人が訪れてみるべき街のように思う。

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温暖湿潤気候

 世界の気候を気温や降水量によっていくつかの類型に分類したものだが、ケッペン(気候学者)の気候区分というのを中学校の地理で習ったのを覚えておられるだろうか。記憶にないという方も、「熱帯」や「温帯」という言葉は普段耳にされると思う。これもケッペンの気候区分だ。まず「熱帯」「温帯」「寒帯」など大きく区分したのち、さらにそれらが細分化される。

温暖湿潤気候・東京(11月)

 我々日本の大部分が属するのが、「Cfa」。Cは温帯を表し、fは湿潤を意味する。aは夏の気温が比較的高いことでCfのうちのbの地域と区別されるものだ。英語でHumid Subtropical Climate。日本語では「温暖湿潤気候」と言われている。この文字面からは、年中暖かくて、水にも恵まれた良い気候が頭に浮かんでもおかしくない。また、熱帯は暑く、寒帯は寒い、その中間の温帯は、暑くもなく、寒くもなく、丁度よい気候と思ってしまいがちだ。

温暖湿潤気候・上海(11月)

 しかし実際はそうではない。「温暖湿潤気候」の東京で最も暑い8月の平均最高気温は31℃。これは、赤道直下、熱帯に属する常夏のシンガポールの年平均最高気温と同じだ。降水量でも、夏場の東京の降水量は、毎日スコールが降るようなシンガポールのそれに匹敵するし、秋の台風シーズンでは大きく上回ってさえいる。一方で冬は、平均最高気温で10℃、平均最低気温は5℃を下回り、防寒対策なしでは生きていけない。温帯は、暑くもあり、寒くもあり、なのである。特に気候変動の影響といわれる近年の猛暑や豪雨の過酷な気象が、冬場との格差を大きくし、より激しい気候になっている。

折れ線: 月間平均最高気温(℃) 棒: 月間降水量(mm)

 決して人類にとって優しいとは言えない温暖湿潤気候だが、この気候の地域が経済的に豊かで繁栄し、今や世界の発展をリードしているのも事実である。日本の大部分の他、上海、香港、台北などの東アジア沿岸部と長江流域、ニューヨーク、アトランタ、ヒューストンなどアメリカ合衆国東部から南部、シドニー、ブリスベンのあるオーストラリア東海岸、ブエノスアイレス、サンパウロはじめ南米大陸東岸の中緯度帯などが温暖湿潤気候の主な地域だが、いずれもそれぞれの大陸で最も経済的に繁栄していると言えるだろう。変化のある気温と雨量が多種の作物の農耕に適したこと、夏と冬の両方への様々な対策の必要性が技術の進歩を引き出したことなどが、これらの地域の発展につながったと思う。これから何百年、何千年先、気候の変容とともに、どうなっていくのだろうか。

温暖湿潤気候・シドニー(8月)

温暖湿潤気候・ニューヨーク
(ウィキペディア「ニューヨーク」掲載写真を借用・改変)

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フォークランド諸島

 国際スポーツ大会では、しばしば国家間の政治的問題が顔を出す。FIFA ワールドカップ2026の準決勝、アルゼンチン対イギリス戦。激闘を制したアルゼンチン選手が、勝利の歓喜の中、横断幕を掲げた行為が、大会で禁止されている政治的行為にあたるとして問題となった。サポーターから受け取ったという横断幕にはアルゼンチンの言語スペイン語で「マルビナス諸島はアルゼンチンのもの」と書かれていた。(マルビナス諸島はアルゼンチン名。国際的には英語名のフォークランド諸島。)さて、この横断幕の主張にはどのような背景があるのか。

フォークランド諸島の旗

 フォークランド諸島はイギリスの海外領土。南大西洋、アルゼンチン南部の海岸の沖合およそ500kmの洋上にあって、狭い海峡で隔たれた東西2つの主要島と周囲の小島からなる。諸島全体で新潟県ほどの大きさ。南緯50度付近に位置し、気候は冷涼、夏場でも最高気温は15度程度。洋上のため風が強く、樹木が育たず、荒れ地が広がる。住民はイギリス系で、人口約3000人。町はイギリス風の街並み。羊の牧畜と漁業が主要産業である。

 16世紀、初の世界一周を果たしたマゼランの船団の一部によって発見されたとも、イギリス人探検家が発見したとも言われ、それ以前に、南米大陸の先住民が到達した痕跡があるとの主張もある。18世紀以降、フランス、イギリス、スペインが入植して島に拠点を築いたが、1833年、イギリスの領有が確定。以後、南米大陸南端のマゼラン海峡を太平洋へと抜ける航路の給炭地として、大英帝国の海洋ネットワークの一端を成した。

 19世紀初頭にスペインの植民地から独立したアルゼンチンは、一貫して、フォークランド諸島の領有を主張してきた。アルゼンチンはスペインからフォークランド領有権を継承しており、イギリスは不法占拠しているに過ぎないとの論法である。この領土問題は度々顕在化したが、1982年、遂に軍事的衝突に至った。「フォークランド紛争」である。アルゼンチン軍が突如、フォークランド諸島に上陸、占領。イギリスは大西洋をはるばる艦隊を派遣。2ヶ月半にわたって陸海空の戦闘が繰り広げられ、双方で1000人近い死者を出した末、イギリス軍が諸島を奪還して終結した。

 その後も今日に至るまで、アルゼンチンはフォークランド諸島の領有を主張し続けている。一方、イギリスは領土を手放す考えはない。今世紀に入って周囲の海で油田が発見されたとなっては、なおさらだし、そもそも当の住民がアルゼンチン帰属を望んでいない。このような200年に及んで燻る領土問題が、件の横断幕に繋がっているのである。

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サイパン・グアム・マリアナ諸島

 7月7日は一般的には七夕だが、私はサイパン玉砕の日としても記憶している。太平洋戦争中の1944年、サイパン島を守備する日本軍がアメリカ軍の猛攻により全滅した日だ。この日を機会に、サイパンとグアムを含むマリアナ諸島の地理、歴史と日本との関係についてふれてみよう。

 マリアナ諸島は日本の小笠原諸島の南、約500kmの洋上。南北800kmにわたって小島が連なり、太平洋からフィリピン海を隔てている。南端のグアム島が最大だが、それでも淡路島と同じぐらい。他にサイパン、テニアン、ロタが主要な有人島。他は極小の島々でほぼ無人。北緯10~20度付近に位置するから気候は熱帯性で高温多雨。台風の発生地帯に近く、時にその被害に遭う。現在人口は約20数万人(うち3/4がグアム)。

マリアナ諸島全図

 主要住民のチャモロ人は今から4~5千年前にフィリピン方面から渡ってきたと推定される。狩猟採集、漁労や根菜類の栽培を生業として暮らしていた島々に大きな変化が訪れる。その端緒は、16世紀、メキシコとアジア間の太平洋交易の寄港地としてスペインが支配下に置いたことである。マリアナ諸島という名もこの時代に王妃の名にちなんで付けられた。その後、1898年から、グアムはアメリカ領に、グアム以外はドイツ領となる。

 1920年、第一次世界大戦の結果、ドイツ領だった島々は、国際連盟委任統治領として日本の統治下に入った。日本の統治は25年間続き、その名残は後々までも様々に見ることができた。私は2004年にサイパンを訪れたことがあるが、日本統治下で建てられた神社、病院やサトウキビ運搬鉄道の機関車が残っていたし、「ONIGIRI」「BENTO」がスーパーに並んでいた。日本語のできる人や日本的な姓や名の人もいた。チャモロ語には多くの日本語の単語が入っているそうだ。

 太平洋戦争開戦でグアムも一時期、日本軍が占領。その後、アメリカ軍の逆襲でサイパン玉砕が起こったわけだ。マリアナ諸島全てを手中にしたアメリカは、テニアンに基地を築き、ここから日本本土空襲の爆撃機が出撃した。広島、長崎に原爆投下した爆撃機もここから飛び立っている。

 太平洋戦争後も、グアムは引き続きアメリカ領、その他のマリアナ諸島も国連信託統治領としてアメリカが統治した。この信託統治領の島々はその後、独立することなく、1986年、「北マリアナ諸島」というアメリカ自治領に移行している。アメリカ施政下では、アメリカ軍の要衝で直轄統治のグアムが基地経済で潤っている他は、本国の財政援助で成り立っていると言って過言ではない。

 日本との関係では、1980~90年代にかけて、グアムに始まりサイパン、ロタまで、リゾート観光地として大量の日本人が押し寄せていた。定期直行便が何便も飛んでいた。今では、韓国人や中国人が取って代わり、日本の存在感が低下している。航空機でわずか3時間ほど、我が国の南の隣人であるマリアナ諸島。日本の皆さんにももっと注目してもらいたい。天気予報の台風情報で時折その名が出てくるだけでは悲しい。

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新潟港

 新潟は、本州日本海側で最大の都市かつ唯一の政令指定都市。その港湾も最大規模。そもそも新潟の町の起源は湊町だ。日本海に流れ出る日本最長の大河・信濃川。その中下流域には、これまた日本海側最大の新潟平野が広がる。広大な平野で獲れる米などや、さらに上流の信州方面の産物の積み出し港として、河口に発達したのが新潟の湊と町である。古代において既に「蒲原の津」などと呼ばれる湊が設けられていたらしい。江戸時代には、平野の真ん中に位置する長岡藩が新潟の湊を管理し、北前船の寄港で大いに賑わったという。

新潟の元来の中心街(新潟日報ビルから)
手前・信濃川。背方・日本海。橋は名橋・万代橋

信濃川河口の新潟(西)港(新潟日報ビルから)
中央の高層ビルは「朱鷺メッセ」。奥は日本海

江戸期の湊の水先案内人「水戸教」の記念公園

 幕末1858年の日米修好通商条約により、函館、横浜、神戸、長崎とともに対外開港、運上所(後の税関)が設けられた。しかしながら、その後の新潟の貿易港としての発展は、横浜や神戸とは雲泥の差、函館、長崎にも見劣りする在り様で、全く振るわなかったと言ってよい。早くも1902年には新潟税関は支署に格下げされている。不振の原因は複合的だろうが、河口という港の立地が足枷となったのは明かだ。大型船が入る近代港湾は深い水深を要するが、川の流砂が次々と堆積する河口では、水深を保つため常に浚渫が必要となるからである。

旧新潟運上所(旧新潟税関)庁舎

旧新潟運上所の石庫(保税倉庫)

旧新潟運上所の荷揚げ場

 そうした河口港のハンディも、その後の土木技術の発達で克服される。1920年頃からは、次々と近代埠頭が建設され、近代港湾として整備されていった。日本の大陸進出で、朝鮮半島や満州など日本海の対岸との海運の拠点ともなった。新潟港の近代的発展の最たるものは東港の建設だ。1969年開港の東港は、旧来の新潟港の東、河口を避けて、砂浜の海岸に水路を掘って造った「堀込み式」という方式の大規模港湾。これも土木技術の発達で建設可能になったものだが、今や工業港、貿易港として発展を遂げている。

現・新潟港全域の概略図
(新日本海フェリー乗り場付近の案内板から)

東港(2004年撮影・県港湾資料室の展示から)

 現在では、港湾機能のメインの部分は東港が担い、旧来の新潟港は西港と呼ばれるようになっているが、やはり、新潟港といえば誰もが西港を思い浮かべるだろう。市街のすぐ側のうえ、人目に触れる、旅客海運と歴史・観光エリアが西港のメインだからだ。西港の埠頭からは、新潟の沖合いの佐渡と結ぶフェリーと高速ジェットフォイルが出ている。関西に通じる敦賀(福井県)、東北の秋田、北海道の小樽と苫小牧(ここも堀込み式)へは大型フェリーが就航している。左岸では、旧運上所の建物を中心に博物館など歴史ゾーンが形成され、右岸にはコンベンション施設の「朱鷺メッセ」があって、港湾エリアに人を呼び込んでいる。

西港停泊中の佐渡汽船のフェリー

北海道へと信濃川河口を往く新日本海フェリー
(山の下みなとタワーから)

(左から)旧運上所、市歴史博物館、旧第四銀行など歴史ゾーン
(朱鷺メッセから)

朱鷺メッセ

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プロ野球・球場跡地紀行 - 関東編

 「駒沢球場」という野球場は御存知だろうか。世田谷区にある駒沢オリンピック公園は、1964年の東京オリンピックの競技会場として整備された複合運動公園だが、このオリンピック会場建設のために取り壊されたのが、ここにあった駒沢球場である。この球場は、1953年、東急電鉄が、自社系列のプロ野球団・東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズの前身)の本拠地として建設したもの。自社鉄道線の沿線に球場を建設してプロ野球を興行、観客を呼び込んで旅客の増大を図るという、阪急や阪神など関西の私鉄で先行していたビジネスモデルを真似たものだ。

駒沢球場跡地に建つ駒沢オリンピック公園第二球技場

 当時の駒沢は、まだまだ田畑が残る郊外で、如何せん都心から距離があり過ぎた。目論み通りには観客は入らなかったようだ。1962年には、オリンピック競技施設建設のため、あっけなく取り壊されている。辺り一帯は広大なオリンピック公園となり、競技場や体育館などが多数建設され、球場のあった場所には第二球技場が建てられた。(現在、駒沢オリンピック公園には野球場があるが、これは別の位置にオリンピック後に建てられたもの)

同上

 では、「東京スタジアム」は御記憶にあるだろうか。1962年、現プロ野球ロッテの前身である大毎オリオンズの親会社・大映が開設した、プロ野球専用球場である。それ以前のオリオンズは、巨人軍などと後楽園球場東京ドームの前身)を共用で本拠地として使用していたので、その専用球場を建設したのである。場所は荒川区南千住。

東京スタジアム跡地の荒川区施設

 いわゆる下町の住宅街に突如として出現した最新鋭の近代的スタジアム。物珍しさで初年度こそ観客を集めたようだが、その後はジリ貧。奇しくも時は巨人軍V9の時代。成績もパッとしないオリオンズの試合を観に行く人は稀だった。開場からわずか10年、1972年に閉鎖となった。現在は区のスポーツ施設や警察署などが建ち、跡形もない。

同上 背面のグランド

 川崎球場なら、まだ記憶にある方も少なくないのでは。京浜工業地帯の川崎は、大手メーカーの工場が集積し、それらメーカーの野球部の活動が盛んな土地柄だった。そこで、社会人野球の拠点とすべく、日本鋼管(現JFE )、東芝、味の素など地元メーカーの出資により開設されたのが川崎球場である。1952年のことだった。折しも当時は首都圏で後楽園球場以外にプロ野球で使用できる球場が不足していたから、早速1955年から大洋ホエールズ(現DNA)が本拠地として使用。大洋球団が横浜へ移転した後1978年からは、東京スタジアムを失ったロッテオリオンズが本拠地とした。

川崎球場跡地に建つ川崎富士見球技場

同上隣接施設にある川崎球場メモリアルコーナー

 当時のパ・リーグの球場はどこもそうだが、川崎球場も御多分に漏れず閑古鳥。改修もされず、老朽化進むに任せる状態だったが、張本勲の3000本安打や落合博光2年連続三冠王など大記録も生んだ。この球場で最高のメモリアルは何と言っても「10.19」だろう。1988年、優勝目前の近鉄バファローズが、ファンで溢れかえる球場でロッテとの一戦に臨んだが勝てず、優勝を逃した一件だ。1992年にロッテが千葉へ移転した後はアメフトの試合などに利用されたが、2000年にスタンド取り壊し、後継施設としてアメフト仕様の「川崎富士見球技場」が開設されている。

アメフト試合中の川崎富士見球技場内

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