地理学徒の語り

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桃山(京都市伏見区)

 日本史の時代区分のひとつに安土桃山時代というのがある。安土は織田信長の時代で、信長の拠点だった滋賀県の安土の名から来ている。豊臣秀吉の天下の時代を表す桃山は、秀吉が築いた伏見城があった京都の山の名前に由来する。(もっとも、桃山という名は伏見城廃城後についた呼び名だそう。)桃山は、低くく緩やかな傾斜なので、山というよりは、丘陵と呼ぶ方が合うかもしれない。清水寺のある東山丘陵、伏見稲荷大社深草丘陵から続く、京都盆地東縁の一連の丘陵の南端になる。

奥の稜線は醍醐山地。その手前の低い稜線が桃山丘陵。その上に建つ天守閣が見える。麓に広がる伏見市街。

 当時、木幡山と呼ばれていた桃山に、秀吉が伏見城を築いたのは、その晩年、1597年のことで、翌年に秀吉はこの城で亡くなっている。その後、天下を取った徳川家康は、伏見城を建て直し大増強した。江戸幕府開幕当初の京都での拠点だったが、やがてその地位を二条城に譲り、1619年には廃城となって取り壊された。今、桃山には天守閣が建っている。これは模擬天守閣で、近鉄が経営する遊園地のシンボルとして1964年に建てられたものだ。絵図に残る伏見城の姿を参考に設計されたという。場所は本当の天守閣とは少し違う。遊園地は2003年に閉園したが、天守閣は地元の人たちの要望で残された。遠くからでもよく見えて、伏見のランドマークになっている。また、伏見城下町にある御香宮の表門は、伏見城大手門を移築したものと伝わる。

伏見桃山城(模擬天守閣)

模擬大手門

駐車場のゲート。これも遊園地の遺構だろう。

御香宮の表門。伏見城大手門を移築。

 伏見城が無くなっても城下町は京都と大坂を結ぶ水運の川湊として栄えたが、桃山は、ほぼ只の山だった。桃山が再び脚光を浴びるのは、明治天皇陵がここに築かれたことによる。明治天皇は1852年の生まれ。まだ天皇家が京都にあった時代だから、当然、京都で生まれた。1867年の天皇即位時もまだ京都。1869年、16歳の時に遷都で東京に移るまで、幕末動乱期の京都で過ごした。1912年に亡くなったのは東京だが、埋葬の地は京都だった。これは明治天皇自身の遺志。永遠の眠りは故郷でということだろう。(細かく言えば京都でなく伏見だが、狭義の京都には当時既に大規模な天皇陵を造れる余地がなかったと思う。)

明治天皇

明治天皇陵が見下ろす風景。遠く宇治まで見通す。

 伏見の街から桃山へと続く坂を登っていくと、天皇陵の入り口に突き当たる。ここから整然とした高木の並木の中に参道が真っ直ぐに伸びている。天皇陵の正面には、陵墓へ真っ直ぐに続く大階段がある。幅広く急で高い階段を登り切ると急に視野が開け、目の前に天皇陵の空間が広がる。明治天皇陵から少し下った所には、明治天皇妃の昭憲皇太后陵もある。明治天皇陵に寄り添うかのような配置になっている。また、少し離れた所には桓武天皇陵がある。桓武天皇平安京建都時の天皇宮内庁では、明治天皇陵、昭憲皇太后陵、桓武天皇陵を合わせて桃山陵墓地として管理している。桃山陵墓地は、桃山のほぼ全体に及んでいて、鬱蒼とした高木の森に覆われている。

明治天皇陵参道入口

明治天皇陵への大階段

昭憲皇太后

桓武天皇陵参道

桓武天皇

桃山陵墓地の森

 桃山陵墓地に隣接して乃木神社がある。乃木将軍を祀った神社だ。乃木希典(まれすけ)将軍は、日清、日露戦争で活躍した陸軍大将。学習院長も務め、後の昭和天皇の養育にも当たった。主君・明治天皇への忠君精神が強く、明治天皇崩御の際に、夫人と共に後追い自刃した。乃木神社は、乃木将軍の殉死に感銘した村野山人(当時京阪電鉄代表)が1916年に建立したもの。境内には、山口県にあった乃木将軍の幼少期の居宅の復元や、日露戦争従軍時に将軍が寝起きした司令部だった満州の民家を村野氏が買い取って移築した建物もある。天皇の後追い殉死やそれを讃えて私財で神社を建ててしまう人がいるような、当時の世相の勉強になる。なお、多くの神社が南面するか、山の上から見下ろすように建っているのと違い、この神社は、北に向かって建ち、桃山を見上げている。明治天皇陵を仰いでいるような位置関係だが、意図したものだろうか。

乃木神社・表門

乃木神社・拝殿
左右に乃木将軍愛馬の像

乃木神社・本殿

乃木将軍幼少期の居宅(復元)

満州にあった司令部の建物(移築)

司令部内の乃木将軍居室

乃木神社建立者・村野山人の像

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