地理学徒の語り

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豊川市(愛知県)

 愛知県は西側の旧尾張国と東側の旧三河国の二つから成っている。旧三河国の領域は、矢作川流域の岡崎や豊田などの西三河と、豊川流域で、静岡県と境を接し、県境を越えて浜松とも繋がりがある東三河に分かれる。東三河を北から南へ貫いて流れる豊川の下流域は平野になっている。豊川が三河湾に注ぐあたりに、東三河の中心都市・豊橋の街があり、その北側、平野の真ん中に豊川市がある。今回は豊川市を歩いてみた。

東名高速道路の愛知・静岡県

 現在の豊川市域は、古代において三河国の中心だった。現在の市中心部からは外れた所だが、三河国府があった場所が市域にある。今にまで残っているのは、国府の一画に建てられた総社。総社とは、各国に建てられた官設の神社で、その国の主要な諸神社をそこにまとめて祭祀したもの。国府国司が、そこに参拝することで、国内各神社を巡ることを省略したとのこと。

三河国総社

 国府跡から数百m離れた所には、国分寺跡がある。広い草地の中に、金堂や講堂、南大門、回廊などいくつかの建物の跡が確定されている。現在、国分寺跡の一画には国分寺という寺があるが、これは中世に再興されたものだそうだ。

以上、三河国分寺跡

 国分寺からまた数百mの所に国分尼寺跡がある。こちらは、復元された中門が建っている他、講堂や金堂の基壇も復元されている。中門の向かいには資料館があって、出土品が展示され、国分寺国府も含めた、三河国の古代政治中心域について学ぶことができる。

以上、三河国分尼寺跡

 三河国の一宮も豊川市内にある。上述の古代中心域とも現在の市中心部とも異なる場所、JR飯田線の沿線で、最寄り駅はずばり「三河一宮」。駅から徒歩数分、豊川河畔の段丘上に鎮座する砥鹿(とが)神社である。天皇の病を鎮めるのに成功した三河国に住む仙人への御礼として、都から来た使者が建立したという伝承がある。

砥鹿神社 南鳥居

砥鹿神社 本殿

砥鹿神社のさざれ石
日本一大きいとのこと。

 現在の豊川市の中心はJR豊川駅周辺。ここにあるのが、豊川と言えばの、豊川稲荷。日本三大稲荷に数えられるらしい。鳥居もあって、稲荷というものの、ここは寺院だそうだ。まさに神仏習合。稲荷と駅との間に門前町が形成されている。商店街には、名物・稲荷寿司の店も多い。いろいろな創作稲荷寿司もあるが、伝統的なのを食べてみたが、おいしかった。この門前町が、江戸時代以前から続く元々の豊川の町だった。明治以降、昭和の初めになっても、小さな門前町の周りは、田畑と原野が広がるのみだったことが当時の地図を見るとわかる。

以上、豊川稲荷

以上、門前町の商店街

JR豊川駅
隣には名鉄豊川稲荷駅がある。

 その門前町郊外の広い原野に1939年に開設されたのが、豊川海軍工廠海軍工廠とは旧帝国海軍直営の軍需工場。豊川より前からあった海軍工廠は、横須賀、呉、佐世保舞鶴などの軍港に設置され、軍艦の造船所が中核だった。豊川海軍工廠は内陸に造られた最初の海軍工廠日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期の軍需拡大に対応して、機銃や弾丸を製造した。最盛期には5万人超の工員がいたという。広大な工廠の周囲には工員宿舎など関連施設、工員の通勤や物資輸送のための鉄道と道路が整備され、たちまちのうちに豊川は一大軍需都市になり、1943年には工廠周辺の町村が合併して豊川市が誕生した。

旧豊川海軍工廠正門
(現在は日本車輌製造の工場正門として使用)

正門前の大通りとけやき並木。当時から残る。

とにかく広大な旧工廠の敷地

旧第一火薬庫(平和公園内)
温湿度調整のため盛土に覆われていた。

 

旧第三信管置場(平和公園内)
爆発事故に備えて土塁で囲まれていた。

 

手前に水槽跡。右端に電灯柱。奥には信管置場の土塁

工廠から豊川駅に繋がる鉄道
今も日本車輌製造の工場引込み線として現役

 

名鉄豊川線と諏訪町駅
工員の通勤のために敷設された。

 海軍工廠は、アメリカ軍の攻撃目標となり、1945年に大空襲を受けて壊滅。多くの犠牲者が出た。戦争後、工廠跡地は転換利用が進んだ。陸上自衛隊駐屯地となった一画の他は、広大な敷地に、製造業企業の工場が並び、戦災復興から現在の豊川市へと発展する原動力となった。跡地の一部には平和公園と交流館が造られていて、豊川海軍工廠をめぐる歴史を学ぶことができる。

陸上自衛隊豊川駐屯地

コニカミノルタの工場

豊川市役所も工廠跡に建つ

工廠神社の跡に建つ平和の像

豊川市平和交流館

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