地理学徒の語り

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佐倉と佐原(千葉県)

 かつての下総国の北部だから北総と呼ばれる千葉県北部に、佐倉と佐原の街がある。どちらも、江戸時代には利根川・江戸川水運と街道により江戸と繋がっていた街で、このことによって街が成り立ち、今に残る個性ある文化が育まれてきたとして、一緒に日本遺産に登録されている。同じような所にあって、両方とも「佐」が付くから、私は二つの街を混同していた。しかしながら、両者には対比性のある違いがある。

 まず佐倉。東京の都心から約40km。JR総武本線に加えて京成電鉄も通じ、東京の通勤圏内だ。佐倉の旧市街ではその感じはないが、市域の西部(東京側)には広大な住宅団地が開発されていて、市自体はベッドタウンの類いになる。

佐倉城趾と旧城下町はこのような坂道を登った台地の上にある。

 北総の一帯は、台地に対して低地が複雑に入り込む地形が広がっている。JRや京成の佐倉駅は低地にあるが、伝統的な佐倉の街は大部分が台地の上にある。街は佐倉城の城下町だった。城郭は佐倉の街が乗る台地の西の端にあって、台地の崖が天然の石垣、台地の下の低地に広がっていた印旛沼(後に干拓により縮小)が天然の堀だった。今は広大な城趾公園になっている。この規模の街にしては城郭は本当に広いと感じた。明治の廃城後は旧陸軍連隊の駐屯地となっており、その遺構も残る。

佐倉城本丸跡

空堀

旧陸軍兵営の便所跡

 城趾の一角に国立歴史民俗博物館がある。博物館の敷地だけでもかなり広い。東京か京都や大阪にあるのが普通のような国立の歴史博物館が、歴史上さして著名でもなかった城の跡に設置されたのはなぜなのだろう。有力政治家が地元に引っ張ってきたのだろうか。城跡の広大な空間があったことは一つの要因だろう。開設が1981年と比較的遅いことから、当時、これだけの広い空間が他には多くなかったかもしれない。

国立歴史民俗博物館

 城跡の東側に旧城下町があり、かつての武家地や町人地の風情が残る。中でも数棟の武家屋敷がよく保存・整備され、公開されている。また、最後の藩主が廃藩後に暮らした邸宅も一見の価値がある。オランダ医学の私塾も残っている。この私塾は東京の順天堂病院に繋がる系譜がある。

武家屋敷街

上級武士の屋敷

中級武士の屋敷

下級武士の屋敷

かつて武家屋敷街から台地の下へ通じた坂 ひよどり坂

同上 くらやみ坂

旧藩主の邸宅

同上 玄関

オランダ医学の私塾・佐倉順天堂

 次に佐原を訪れた。佐倉からさらに東へ30km。東京通勤圏からほぼ外れただろう。走るJR線にローカル線感が漂う。佐倉が城下町だったのに対して、佐原は商人の町だった。利根川・江戸川の水運を利用した、大消費地・江戸との交易が、佐原の街を成り立たせた。したがって当然のことながら、街は台地の下、利根川沿いの低地にある。利根川に繋がる水路・小野川の周囲に商人町が栄えていた。今も当時の風情がよく残り、伝統的建造物群保存地区に指定されている。水路を巡る観光舟が運航され、水郷・佐原として観光客で賑わっている。

佐原の街は低地にある。市街後方に見えるのは台地。

     

以上、水路沿いの旧商人街(伝統的建造物群保存地区

洋館も残る。(旧三菱銀行佐原支店)

 自称地理学徒として恥ずかしい限りだが、日本の地図作製史上最大の大家、伊能忠敬が佐原の出というのは知らなかった。忠敬は、江戸時代のこの街の造酒屋の婿養子で、街の名主も務めた名望家だったとのこと。その旧宅が保存公開されていて、近辺には記念館(地図好きは必見)もある。日本全国に及ぶ壮大な測量作業は隠居後に江戸に出てからの事だというから驚きだ。

伊能忠敬旧宅

伊能忠敬記念館

 さて、佐原は、2006年まで「佐原市」という単独の市だったが、いわゆる平成の大合併で、周囲のいくつかの町と合併して「香取市」となっている。旧佐原市役所が香取市役所で、市の中心は依然、佐原の街だが、市名は、元から市だった佐原ではなく、「香取」が採用された。それは、街の隣の地区に鎮座する香取神宮の威光によるものだろう。下総国一宮の有名どころの名を採ったということだ。(「香取」は、佐原を含む合併市町の旧郡名でもある。)

 

以上、香取神宮

 香取神宮への参詣は、かつては水運によるのが主路で、利根川の舟着き場から通じる道が表参道だったらしい。今も河川敷に舟への目印になった鳥居があるが、昔は川中だったとのこと。

利根川から神宮へ続く参道。かつて都からの勅使も通った。

利根川の舟着き場跡に残る常夜灯

利根川の河岸の鳥居

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