地理学徒の語り

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碓氷峠と横川 - 群馬・長野県境

 群馬県と長野県の県境にある碓氷峠は、古来より重要な交通路であるとともに、そこに立ちはだかる難所として名高かった。峠の西側(長野側)は、有名な高原避暑地の軽井沢だが、ここから峠の上までの標高差は20m程とほとんどない。しかし、東側は、峠下の横川との標高差が500m以上。しかも距離は10km程でこの標高差だから、交通路としては急峻極まる。上るも下るも超難儀である。

 古代には、ここを東山道が通過していた。大和(現奈良県)から美濃(現岐阜県)や信濃(現長野県)といった山国を抜けて、碓氷峠を通過、上野(現群馬県)、下野(現栃木県)から陸奥(現東北地方)へと通じていた。

 江戸期になると、中山道と名前を変え、京の都と江戸の間を往来する人馬が行き交った。峠下の横川の村には、峠越えの旅人のための茶屋などが軒を並べていただろう。茶屋本陣が今も残る。そして、幕府によって碓氷関所が設けられ、江戸に出入りする人や物が厳しく取り締まられていた。この関所の東門が復元されている。(ただし復元場所は元の位置とは異なる。元の位置は現在も道路であるため、番所などの建物があった所に復元。)傍らには小さな資料館もある。

横川茶屋本陣

碓氷関所東門

碓氷関所跡
道路は旧街道で、東門は画角右端付近の道路上にあった。
左端の白い建物が資料館

 この資料館のガイドのおじさんたち(ボランティアの地元の方と思われる。)がいろいろな話をしてくださった。この資料館には関所と街道のことはもちろんだが、建設から開業後の運用まで、碓氷峠越えと格闘し続けた鉄道のことも展示してある。元国鉄の運転士だったというガイドの方から私にとっては初耳の話をたくさん聞くことができた。

 鉄道にとっても、関東と信州、さらに新潟方面を結ぶ重要幹線上にあって、碓氷峠は難関であり続けた。18の橋梁と26のトンネルが必要だったというから、建設が困難だったのは言うまでもないが、運行にも特殊技術が必要だった。

 急勾配は普通の列車では車輪がレール上で空転して走行できない。それで、アプト式という、車両下部につけた歯車と線路に沿って設置された歯形レールを嚙み合わせて勾配を上り下りする方式が採用された。

溝蓋に再利用されたアプト式の歯形レール

 明治期(1893年)の開業当初は蒸気機関車で、速度も遅く、トンネル内では乗務員・乗客が機関車からの煤煙地獄に曝されたという。ガイドさんの父だったか祖父だったかは、トンネルに列車が入った後すぐ、トンネル入り口を塞ぐ幕を引く役目だったと聞いた。この幕を引くことでトンネル内で前方に空気が流れないようにして、最後尾で列車を推進する機関車からの煙を防いだとのこと。

 蒸気機関車の推進力不足と煙害を解決するため、早くから電気機関車が導入された。それはなんと、まだ明治期。1912年、幹線鉄道では日本最初だったそうだ。そのための発電所が近くに設けられ、今も残っているという。当初は、狭隘なトンネルが連続する路線に電線を架線できなかったため、線路に沿って敷設した導電体から車体の横側の装置で受電する方式だったそうだ。この方式も日本最初。

 電気機関車になっても、急勾配は1両の機関車の推進力では足りず、機関車3両の連結を要した。峠下の横川駅では、機関車の連結や切り離し作業が必要で、山間の駅ながら、運行上の拠点だった。当然、人手が必要だから、横川は、ちょとした「鉄道のまち」だったろうと想像する。

横川駅

 以上のような碓氷峠との鉄道の格闘と鉄道拠点としての横川を終焉させたのが、1997年の北陸新幹線の長野までの開通である。新幹線は、旧来の道路や鉄道とは違うルートで、長大なトンネルによって、簡単に碓氷峠を越えた。(といっても、勾配対応の特別仕様の車両を要している。)そして、新幹線開業と同時に、碓氷峠の在来線区間、つまり、信越本線の横川・軽井沢間が廃止になった。(廃止区間の交通はバスが代替。)横川駅は終着駅になって、ここから先の鉄路が途切れてしまったのである。残った路線はローカル線になってしまった。

廃線レールが横川駅から碓氷峠方面に今も続く。

廃線区間代替バスのりば

 広大なかつての機関車基地は、「碓氷峠鉄道文化むら」となって、なんとか往時の歴史を伝えている。この施設名に「文化」が入っているのは、意図したかは不明だが、まさにこの地に、峠との格闘で生じた独特の鉄道文化とそれに関わった人々の生活があったからこそじゃないかと私は感じる。元運転士のガイドさんが最後にこう言った。「(同じ群馬県内で近隣の)富岡(製糸場)が世界(文化)遺産になったけど、ここも一緒に世界遺産にしてもらいたい。」まことに同感である。もっとも、世界遺産登録で遺産にランク付けする世の流れはどうかと思う。世界遺産でなくても遺産はどれも貴重だと思う。

碓氷峠鉄道文化むら
機関車基地時代のレールが今も残る。

鉄道文化むらの展示車両

信越本線廃線跡
右は遊歩道として、左は鉄道文化むらの観光トロッコ用として利用。