地理学徒の語り

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大垣(岐阜県)

 4月の末に岐阜県の大垣に行った。岐阜県南部、旧美濃国(みののくに)の西部だから西濃(せいのう)と呼ばれる地方の中心都市だ。

 ここは意外にも水郷である。「水都・大垣」などと自称する。岐阜県は内陸県で、飛騨高山などがあって山国の印象が強く、私の中では、低地の水郷は思い浮かばないイメージだった。そういえば、小学校の地理でも習った「輪中」(周囲を堤防で囲まれた、河口付近の低湿な地域)は、ここから川を下ったすぐ先にある。すっかり忘れていた。大垣は内陸だが、海抜わずか5m前後。海(伊勢湾)から低くて平らな土地がここまで続いている。

 城跡の近くの市営駐車場に車を置いて、城跡へ向かおうとすると、すぐに「水都」の光景に出会った。観光の「たらい舟」の乗り場があった。船頭が竿で操るたらいに乗って、街中の水路をめぐるものだ。乗船の順番待ちの観光客で賑わっていた。

 大垣城跡に着いた。やはり大垣は低い平らな土地なのだろう。多くの城が高台にあるのと違って、この城は市街地とほぼ同じ高さにある。坂や階段を息を切らして登ってたどり着く必要はない。

 大垣城は、関ヶ原の戦いの前哨戦があった場所だそうだ。西軍・石田三成が迫り来る東軍に対峙してこの城に籠城した。東軍の大将・徳川家康は城を水攻め(城の周囲に水を引き入れて浸水させ、城を孤立させて兵糧を絶つ攻め方)にすることを考えたそうだ。低い土地で、水が余り有る所だから採り得る作戦だ。実際には、そうなる前に石田軍が城から脱出、西へ向かって関ヶ原での戦いとなったのだが。

 天守台の石積の下の方、地面から1mぐらいの所の石に文字と横線が刻まれている。「明治廿十九年大洪水點」とある。1896年の豪雨による水害の際、洪水の水がここまで達したことを示している。城とほぼ同じ高さの市街全体が洪水に見舞われたということだ。

石積の角の部分、下から3段目の石に「明治廿十九年大洪水點」の文字と洪水の水位を示す横線が刻まれている。

 水の被害もあるが、恩恵もある。大垣の街を取り囲むように水路が流れている。城の堀としても機能した部分もあるが、これを利用した舟運が盛んだった。中心的な川湊は「船町」(現在もこの地名)にあった。水路は「水門(すいもん)川」という川でもある。下って行けば、伊勢湾までつながっていた。

 大垣は、江戸時代の俳人松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の終着地である。旅を終えた芭蕉は、ここから次に伊勢へと向かった。舟で旅立ったという。やはり大垣は水郷だ。

船町の川湊跡