地理学徒の語り

Geographer's Tweet

三重・和歌山県境

 三重県和歌山県の県境に行ってみた。紀伊半島の先端・潮岬から40kmほど名古屋側に北上した所で、紀伊山地を流れて太平洋・熊野灘に注ぐ熊野川の河口部である。この辺りでは熊野川が両県の県境になっている。川の北側が三重県で、南側が和歌山県だ。

新宮城址から熊野川を望む。川の左側が和歌山県新宮市、対岸は三重県鵜殿

 川の南べり、つまり和歌山県側の小山の上にある新宮城址から県境を望んだ。川の南側には、この辺りの中心的な街である新宮市街が広がっている。少し奥には熊野速玉大社の杜が見える。川をずっと遡れば熊野本宮大社が鎮座している。
 熊野川は大きな川だから、河口のこの辺りの川幅は広い。とはいえ対岸は目と鼻の先と言ってよい。三重県の鵜殿の町の家並みがはっきり見える。川には2本の道路橋とJR紀勢本線の鉄橋が架かり両岸を結んでいる。

手前・和歌山県、対岸・三重県

 一般に川が県や市の境界となっている所は多い。山の境界もまた多い。川は往来の障害になるが、山の場合と比べれば交通は容易で、両側の交流が盛んな所が多い。ここ熊野川に架かる橋は対岸から新宮市街へ向かう車で渋滞していた。休日の午前だから、観光客の他、買い物の地元民も少なくないだろう。県が分かれて約150年が経った今でもなお、両岸の結びつきが強いことを感じる。
 橋を渡って先へと進んだ。そこは三重県で、東紀州と呼ばれる地方である。三重県の最南端部にあたる。観光施設で手に取る観光パンフレットには、東紀州だけでなく和歌山県南部の観光地も同じレベルで載っている。売られている土産物も和歌山県側と変わらない。違う県に入った感覚はない。県境に関わらず、熊野地方として一体性があるように感じる。

 紀州つまり昔の紀伊国(きいのくに)の東の部分だから東紀州。では西紀州はどこかと言えば、あえて言えば和歌山県だが、そう呼ばれる地域はない。東紀州以外の紀伊国は全て今は和歌山県で、紀伊国のうち三重県になった部分だけが、東紀州と呼ばれている。県ができる前、江戸時代以前は、熊野川は境界ではなかった。今の和歌山県三重県・東紀州紀伊国だった。
 では、紀伊国はどこまでだったのか。隣の伊勢国(いせのくに)との境界はどこだったかと言えば、現在、東紀州と呼ばれる地域の北の端ということになる。南の端の三重・和歌山県境から70km以上、三重県内を北東に進んだ所になる。
 そこは山が境界となっている所で、荷坂峠の山越えの道が通じている。この峠の南側までが紀伊国で、太平洋の海に面している。峠を越えると伊勢国、伊勢湾へと下る川沿いを行けば、伊勢神宮に至る。
 古来は、近くのツヅラト峠が街道だったが、江戸期に、難所の度合いが少しはましな荷坂峠が通されたという。といっても、九十九折りの急坂が続く難所に変わりはなかっただろう。

荷坂峠から南方を望む。太平洋が見える。

 荷坂峠には、今は国道42号線が通じている。峠のてっぺんこそトンネルで通過しているが、峠の両側の上り下りには、一級の国道にしてはかなりの急坂、カーブが続く。
 さらに近年整備された紀勢自動車道は峠に登らない。峠の下から向こう側の峠の下まで一気にトンネルで通過する。だが、このトンネルは長大だ。約3000mある。とにかく、ここは今でもかなりの難所。旧国どうしの国境(くにざかい)にふさわしい所だ。

荷坂峠。右は国道42号のトンネル、左に行くと古来の峠道が残る。

 実は、この東紀州に、もうひとつ歴史ある境界がある。ちょうど東紀州地方を南北に二分する、今の熊野市と尾鷲市の境界にあたる。そこへは、荷坂峠から熊野川方面へ40km以上戻ることになる。
 古代より戦国時代まで、紀伊国は、この境の南までだった。北側は志摩国(しまのくに)といって、海岸沿いに伊勢湾の入り口、今の鳥羽市までが領域の国だった。荷坂峠のすぐ南側の街は紀伊長島だが、ずっと昔は志摩長島だったわけだ。
 戦国時代の1582年、伊勢・紀伊両側の勢力によって志摩国はそれぞれに分割編入され、荷坂峠が国境になったが、志摩国の成立が7、8世紀といわれるから、この志摩・紀伊国境の方が、荷坂峠よりも国境としての期間は長い。
 この旧志摩・紀伊国境一帯はどんな所だろうか。境界の南側は、「七里御浜」と呼ばれる一直線の砂浜(厳密には砂ではなく小石だが。)が、延々と熊野川河口まで続く。太平洋の外洋に向かって直接開けた土地である。

景勝・七里御浜

景勝・鬼ヶ城

 一方、北側は岬と入り江が交互に連続する、いわゆるリアス式海岸で、太平洋岸だが入り組んでいるため、内海の趣がある。このような海岸は、北上して、三重県鳥羽市付近まで続いている。

七里御浜の北端付近から北東を望む。奥の山陵(鬼ヶ城)からリアス式海岸が始まる。

 自然環境が違うと、別々の生活文化が営まれ、人の気質まで異なることもよくある。ここの境界の場合はどうなのだろう。最も歴史あるこの境界が、熊野川よりも、荷坂峠よりも、三重・伊勢的なものと和歌山・紀伊風のこととの境としてしっくりくるなんてことがあるのではないか。地元の人に訊いてみたい。

 さて余談だが、東紀州の道の駅で売っていた地元産の「みかん」(品名に「みかん」としか書かれていなかった。)が、とても美味しかったので紹介したい。
 形は、少しだけ大き目の温州みかんのようで、色は、淡い黄色。皮は固く、手では剝けないと書いてある。外観からは、レモンか夏みかんのような酸味を想像するが、店員さんに聞くと、酸っぱくない、甘いとのこと。
 半信半疑で試しに買って、家に帰って食べてみた。これが、これまでに味わったことのない味で、とても美味しい。店員さんの言ったとおり、確かに甘い。でも温州みかんとはまた違う、すごくさっぱりした甘みだ。もっとたくさん買えばよかったと後悔した。
 ネットで調べたところ、「みえのスマイル」という最近開発された品種だった。見た目から、酸っぱい味を想像されるので、対面販売での説明が必要だとか書いてあって、普及に課題があるようだ。
 とても美味しいから、少しでも普及につながるよう、ここで宣伝しておきます。皆様、是非お試しください。「みえのスマイル」をよろしくお願いいたします。

綾部(京都府)

 綾部に行ってきた。京都府丹波地方の街である。丹波山地に源を発して若狭湾に注ぐ由良川。その中流に開けた盆地の東端に市街が広がっている。由良川は中下流域の流れが緩やかなのが特徴で、綾部付近で河口から約50km遡上しているが、川面の海抜は30数mである。それゆえ、洪水を起こしやすい一方、舟運に適した。綾部市内の高津には、古代に川湊があったといわれる。

東方から望む綾部市

市街付近の由良川

 この街は、明治期の殖産興業で勃興した養蚕・製糸業で発展した。当時の何鹿郡(現綾部市)の採るべき策を意味する「郡是(ぐんぜ)」製糸株式会社が創業、会社の発展とともに街は歩んできた。郡是製糸は現在の繊維大手「グンゼ」である。今も綾部本社がここに置かれ、工場も操業している。

グンゼ綾部本社

 市街の北側に広がるグンゼ創業の地は、会社及び街の歴史顕彰ゾーンになっている。会社と市が共同して開発した観光エリアだ。旧本社の社屋や繭蔵など100年以上の歴史を持つ建物が、博物館などになって往時を偲ばせ、バラ園が彩りを添えている。

グンゼ記念館(旧本社屋)

グンゼスクエア・グンゼ博物苑

 もうひとつ、この街を特徴づけるものがある。大本教だ。明治期に綾部で発祥した神道系の新宗教である。弾圧など困難な歴史も経て、今や全国に10万を超える信徒がいるとのこと。現在まで綾部で広大な敷地に本部を構えている。本部敷地内に建つ神殿の建物は建築物として価値のあるものとなっている。

長生殿

みろく殿

 繊維産業の最盛期には大いに賑わった街。映画館もあり歓楽街もあった。かつての賑わい、今や見る影もない市街の通りを歩いて、綾部駅にたどり着いた。この駅は、京都から丹波地方を縦断し山陰方面に通じるJR山陰本線と、そこから分岐して舞鶴に向かう舞鶴線の結節点になっている。

かつてメインストリートとして賑わった西町通り

JR綾部駅

 駅に着いた時、ちょうど、京都から山陰本線を来た特急が到着したところだった。この駅で車両切り離しをして、一部は特急「まいづる」として舞鶴へ、残りは特急「きのさき」として山陰本線を直行、福知山を経て兵庫県城崎温泉へ向かう。鉄道運行に多くの人手を要した時代には、機関車付け替えなどがあって、綾部にかなりの数の鉄道関係者がいたそうだ。今ではものの数分で切り離しは完了して、列車は去って行く。

綾部駅停車中の特急「きのさき・まいづる」(Jリーグ京都サンガと地域観光機構のコラボ特別塗装)

分岐する山陰本線(京都方面)(右)と舞鶴線(左)

城陽(京都府)

 京都の南に城陽(じょうよう)市という街がある。市名の由来は、山城国(城州)の南部(陽の当たる方)にあるからである。京都以外の人には、ほとんど知られていない街だろう。京都でも、これといった特徴のない、ありふれたベッドタウンという印象しか持たれてないように思う。
 何か面白いことはないのか。ネットを探ってみる。「五里五里の里」というのに私は引っかかった。城陽の地は、京都から五里(約20km)、奈良からも五里。両古都の真ん中に位置しているというのである。そう呼ばれたのは、京都と奈良を繋ぐ奈良街道がここを通っていたからである。「五里五里の里」と街道をテーマに街歩きしてみよう。5月のある日、市の北から南へ奈良街道の旧道をたどって歩くことにした。

 歩き始めて早速、歴史的なものに出くわした。久世(くぜ)神社とある。城陽市を含む一帯は、かつて久世郡だった。旧郡名と同じ名称の神社。きっと由緒あるに違いない。と思ったが、境内の説明書きでは、明治期に久世神社と名乗るようなったとのこと。郡名との関わりの歴史は浅かった。しかし、ここには古代には久世寺があったという。この辺りの地名も久世である。郡の発祥と関わりのある地に違いない。

久世神社

 JR城陽駅付近を過ぎて、さらに南に進む。また神社の鳥居に出くわした。水度(みと)神社とある。この名前は、水と関係あるに違いない。水の戸口、つまり地下水の湧き口を意味しているはずだ。鳥居の脇にある玉池という池はきっと湧き水だろう。城陽の一帯は、西側が低地で、東側が丘陵地になっていて、街道沿いがちょうどその境目。丘陵の伏流水が街道付近で湧き出すというのは、理屈にかなう。

水度神社の一ノ鳥居

 街道沿いの一ノ鳥居から社殿までは、かなり距離がある。丘陵地を真っ直ぐに緩やかな登り坂が伸びる。10分ほど歩いて、境域の入り口となる二ノ鳥居にたどり着いた。そこから神社の杜の中を階段を登って、ようやく社殿に到着した。社殿は南向きだ。街道からここまで、東にほぼ真っ直ぐに来て、最後に左に90度、体を向けると、社殿がこちらを向いて建っている。そういえば、久世神社も、距離こそ違え、街道沿いの鳥居と社殿の向きの位置関係は同じだった。最近、神社の向きが気になるようになったが、神社にとって南向きは大事な事なのだとつくづく思う。

水度神社の二ノ鳥居

水度神社

 社殿前の広場で登りは終わりではない。そこから鴻ノ巣(こうのす)山(標高117m)という山に向かって登山遊歩道が伸びている。頂上には展望台があるという。行くしかなかろう。いっぱしの登山になった。20分ほどかかったと思う。息を切らして頂上にたどり着いた。展望台からは西の方に眺望が開けている。一番遠くにかすかに見えるのは、神戸の六甲の山並みだそうだ。そこまで見えるとは思わなかった。

鴻ノ巣山から

 山を降りて街道に戻る。さらに街道を南下した。しばらく行くと、城陽の未来の交通軸に出くわした。建設工事中の新名神高速道路である。旧奈良街道はもちろん、それを継承した国道24号線、さらにはJR、近鉄城陽を南北に通じて、京都・奈良を結んでいる。それに直行して、新しい国土軸・新名神が市を東西に貫くことになる。城陽にはインターチェンジが設けられる予定で、新名神から京都、奈良への玄関口になる。物流の拠点として発展することが期待される。

建設工事中の新名神高速道路

 旧奈良街道を市を縦断して歩いてみたが、旧街道を歩くと、わずかではあるが、所々に街道の面影を感じる景観が残っている。城陽には、高度成長期に宅地化した住宅街のイメージしかなかったから、意外だった。歴史的なものにも出会った。地形も感じた。将来の息吹きも見えた。やはり、街歩き、やってみるものだ。

かつての奈良街道の宿場・長池地区に残る道標

橋本・樟葉 - 京都・大阪府境

 淀川左岸の京都・大阪府境界隈を歩いてみた。この辺りは、かつて京と大坂を結ぶ京街道が通り、人の往来が盛んだった所だ。京街道のルートは近代になって京阪国道に継承され、今も交通量が多い。(なお、今の京阪間の主幹線である国道1号線は、京阪国道の増大する交通量に対応するため、こことは別のルートで新たに造られたものだ。)京街道とほぼ同じルートを京阪電鉄本線も通じている。

 散策の出発は、京都府八幡市橋本地区、京阪電鉄橋本駅からだ。駅を出て、北(川側)にすぐの所で、石標を見つけた。私の能力では全てを解読できないが、淀川対岸の山崎(かつて京から山陽方面へ通じた西国街道の宿場)への渡し場を示しているのは少なくとも読み取れた。後で調べたところによると、ずっと古くには、ここ橋本から山崎に橋が架かっていたそうである。橋本の地名の由来でもあろう。しかし、ここは川幅のある淀川。おそらく大水の度に流されたのだろう。いつからか架け直されなくなって、替わりに、渡し船が出るようになったとのこと。

 渡し場としての賑わいによるものだろう。ここには遊郭があった。今も風情のある一角が元遊郭だ。かなり歯抜け状態になっているが、それでも独特の趣のある建物が何軒か並んでいる一角が残っている。宿としてリノベートされているものもある。しかしながら、観光地ではない。一般住宅街と変わらない静けさの中にある。もう十年もしたら、消え去ってしまいそうだ。貴重な歴史地区だから、何とか保存されるべきと思う。八幡市さん、どうにかできないでしょうか。

 橋本の元遊郭の家並みを抜けると、京都・大阪の府境だ。だが、標識は見当たらない。GPSマップと照らし合わせながら府境の位置を探った。堤防の上に国土交通省管理の樋門施設があって、その管理小屋が府境上に建っているようだ。

金川樋門。建物の右側が京都府、左側が大阪府

 他にも府境のポイントを探ってみた。ありふれた住宅街の中を流れる、小川と溝の中間ぐらいの規模の水流がある。GPSマップによれば、この流れが、しばらく府境になっている。(写真①参照)ここにも標識はない。自宅は京都府だけど、近所のコンビニは大阪府というような界隈。往来する車や人は結構あるが、府境を意識することはないだろう。

写真① 水流の右側が大阪府、左側が京都府

 こんな府境もあった。崖の法面が府境になっている所である。崖の上に建つ家は京都府で、その崖下の住宅は大阪府という状況になっている。(写真②参照)お隣さんどうしで府県が違うというのは、府県境付近では当然あることだろうが、崖の上下の家どうしでというのは面白いと思った。もっとも、地元の人はあまり意識ないと思う。府境を越えても全く何も変わらない住宅街が続いているだけだから。

写真② 崖の上に建つ茶色い家は京都府、他の崖下の家々は大阪府

 そうこうして、ひとしきり府境探しをした後、大阪府側に進んだ。枚方市樟葉(くずは)地区である。しばらく行くと、かなり広い緑の芝地が出現した。「樟葉台場跡」との説明書きがある。知ったところでは、幕末期、ここに幕府が、大阪湾から淀川を遡って京都に侵攻しようとする外国船を大砲で迎え撃つための砲台場を設けたとのこと。(実際には、この目的で役立つような事態は起こらず、むしろ、京坂間を往来する反幕府分子を検める関所として機能したらしい。)淀川を挟んだ対岸にも砲台場が造られていたそうで、両岸に大砲が並ぶ光景を想像するに、かなり物々しいものだったろうと思う。

樟葉台場跡。後方の山(男山)の斜面の家々は京都府

台場前面の土塁と堀

 この辺りにこんな物があったとは全く知らなかった。幕末期の砲台場と言えば、東京湾の「お台場」が有名だが、ここはその淀川版だ。河川に向けて設けられた砲台場は希少なのではないか。大阪、京都のベッドタウンである今のこの地域の姿からはとても想像できないが、当時の世相の緊迫感を物語る史跡として、もっと顕彰されてよいと思う。枚方市さん、よろしくお願いいたします。

男山・石清水八幡宮

 京都府八幡(やわた)市にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に出かけた。市の名前の由来になっている、それなりに名の知れた神社だ。最寄り駅は、京阪電鉄石清水八幡宮駅。この駅は、数年前まで八幡市(やわたし)駅といった。メインターゲットの乗客が、減少傾向の通勤客から増える観光客に変わったことを感じる。

木津川を挟んだ対岸から望む男山

駅前から望む男山

 神社の本殿は男山(標高143m)という小山の上にある。駅は男山の北側のすぐ下にあり、改札を抜けて駅前に出れば、目の前に男山がこんもりとした山体を横たえている。駅前から同じく京阪電鉄運営のケーブルカーで山上まで行くことができるが、今回は登山参道を歩いて登ることにした。

一ノ鳥居

 駅からすぐ近くに一ノ鳥居があって、ここが境内への入り口だ。ここから参道はつづら折れしつつ山体の東面を北側から南側へ回り込むように登っている。

登山参道

石清水社

 途中に石清水社という小さな社と井戸があった。説明書きによると、井戸の水源は石清水という湧き水で、八幡宮創建以前から知られていたという。石清水という名前から、湧き水との関係を感じていたが、ずばり、その名のとおりだった。

石清水八幡宮本殿

 ちょっとした登山の末、ようやく八幡宮にお目にかかれた。山の上の社殿にしては、大きくて荘厳なので意外だった。本殿に向かって南の三ノ鳥居から一直線に参道が通じている。この参道に傾斜はほとんどない。山上までの道は急傾斜だったが、山上には、比較的広い平らな土地があるようだ。神社の建物の他にも、社務所、休憩所、研修センター、さらには体育館まで、関係施設がほぼ平面上に建っていた。

三ノ鳥居から本殿へ一直線の参道

 大樹が茂る山上からは展望が利かないが、中腹には展望所がある。地理学徒としては、展望所があって訪れないのはあり得ない。展望所の眼下には、木津・宇治・桂の三川合流の地が広がる。その遠く向こうに京都市街。その奥の北山の山並み、右端に比叡山、左端に愛宕山の山頂が頭一つ頭抜けて見える。

展望所から京都市街を望む

三川合流の地(木津川・宇治川・桂川)

 京都の桜の名所のひとつ、背割堤(せわりてい)。京都の桜の名所には神社仏閣が多いが、ここは違う。川の堤防である。堤防上に桜並木の遊歩道が約1.5km続く。近年、高所から全体を見渡せる展望タワーが作られて、桜の時期の人出はすごい。私が行った時は4月の末。すっかり葉桜となった今では、人もほとんどいない。新緑の中、静かですがすがしい散歩道だ。

背割堤上の遊歩道と桜並木

 背割堤は、木津川と宇治川を仕切る堤防として、1917に建設された。堤防の先で両川は合流。そのまたすぐ先で桂川も合流する。「三川合流」と呼ばれる地である。

 北に天下分け目の山崎の戦いの天王山、南には石清水八幡宮が鎮座する男山があって、その間の関門のようになった狭い低い部分に三川が集まってくる。三川はこの地で合流した後は、淀川となって大阪湾へと大阪平野を流れ下って行く。

展望タワーから西を望む。左は木津川、右は宇治川、間の緑が背割堤。男山(左端)と天王山(右端)の間で三川が合流。

 桜の展望タワーから北、東、南を望めば、京都盆地全体が見渡せるが、少なくとも見える範囲全ての水がここに集まる。そして、実際の集水域は見渡せる範囲より遥かに広い。

 木津川は、奈良県北東部の宇陀高原と忍者で有名な三重県伊賀盆地の水を集めて流れ出し、京都府南部を北上して、ここに至る。

 宇治川は琵琶湖から流れて来る。滋賀県全域の水は一旦、琵琶湖に流れ込んだ後、湖最南端の瀬田から川となって流れ出す。途中、平等院とお茶で名高い宇治を通過するあたりから宇治川と呼ばれ、ここに至る。

 桂川は、京都の北の丹波山地に端を発し、風光明媚な嵐山・渡月橋の下を通過。京都市街を流れて来た鴨川の水も集めて、ここに至る。

 遥かかなたの集水域のことまで想いをめぐらせていると、壮大な気分になってくる。桜シーズン以外にも是非訪れてみてもらいたい。

背割堤上の石碑。後方は桂川を挟んで天王山。

大垣(岐阜県)

 4月の末に岐阜県の大垣に行った。岐阜県南部、旧美濃国(みののくに)の西部だから西濃(せいのう)と呼ばれる地方の中心都市だ。

 ここは意外にも水郷である。「水都・大垣」などと自称する。岐阜県は内陸県で、飛騨高山などがあって山国の印象が強く、私の中では、低地の水郷は思い浮かばないイメージだった。そういえば、小学校の地理でも習った「輪中」(周囲を堤防で囲まれた、河口付近の低湿な地域)は、ここから川を下ったすぐ先にある。すっかり忘れていた。大垣は内陸だが、海抜わずか10m前後。海(伊勢湾)から低くて平らな土地がここまで続いている。

 城跡の近くの市営駐車場に車を置いて、城跡へ向かおうとすると、すぐに「水都」の光景に出会った。観光の「たらい舟」の乗り場があった。船頭が竿で操るたらいに乗って、街中の水路をめぐるものだ。乗船の順番待ちの観光客で賑わっていた。

 大垣城跡に着いた。やはり大垣は低い平らな土地なのだろう。多くの城が高台にあるのと違って、この城は市街地とほぼ同じ高さにある。坂や階段を息を切らして登ってたどり着く必要はない。

 大垣城は、関ヶ原の戦いの前哨戦があった場所だそうだ。西軍・石田三成が迫り来る東軍に対峙してこの城に籠城した。東軍の大将・徳川家康は城を水攻め(城の周囲に水を引き入れて浸水させ、城を孤立させて兵糧を絶つ攻め方)にすることを考えたそうだ。低い土地で、水が余り有る所だから採り得る作戦だ。実際には、そうなる前に石田軍が城から脱出、西へ向かって関ヶ原での戦いとなったのだが。

 天守台の石積の下の方、地面から1mぐらいの所の石に文字と横線が刻まれている。「明治廿十九年大洪水點」とある。1896年の豪雨による水害の際、洪水の水がここまで達したことを示している。城とほぼ同じ高さの市街全体が洪水に見舞われたということだ。

石積の角の部分、下から3段目の石に「明治廿十九年大洪水點」の文字と洪水の水位を示す横線が刻まれている。

 水の被害もあるが、恩恵もある。大垣の街を取り囲むように水路が流れている。城の堀としても機能した部分もあるが、これを利用した舟運が盛んだった。中心的な川湊は「船町」(現在もこの地名)にあった。水路は「水門(すいもん)川」という川でもある。下って行けば、伊勢湾までつながっていた。

 大垣は、江戸時代の俳人松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の終着地である。旅を終えた芭蕉は、ここから次に伊勢へと向かった。舟で旅立ったという。やはり大垣は水郷だ。

船町の川湊跡