誰もが学校で教えられるペリー来航の地、浦賀。神奈川県、三浦半島の先端東寄り、ちょうど東京湾の入口に位置する。1853年、ペリーの黒船が来た当時、ここには江戸幕府の奉行所があった。役割は舟の検問。当時、江戸湾を出入りする舟は必ず浦賀の舟番所に立ち寄って、検問を受けなくてはならなかった。ペリー艦隊にも浦賀奉行所が対応した。奉行所跡地は現在空き地になっていて、外堀の石積や石橋が残るのみ。場所は海辺から坂を登った一番奥。奉行所から海辺の船番所までの間には役人の屋敷が並んでいたという。


浦賀にペリー艦隊が現れてから、てんやわんやの後に、結局ペリーに上陸を許すことになった地は浦賀ではなく、山を一つ挟んだ西隣の湾、久里浜だった。幕府が久里浜でペリー一行に接見することとした理由は、広い土地があって防備の兵力を展開しやすいことだったといわれている。確かに、浦賀は、細長く深く入り込んだ湾の海岸近くまで山が迫り平地が乏しいのに対して、久里浜は、U字形の湾の海岸線に砂浜が続き、その奥には平地が広がっている。大昔には浦賀のような深い湾だった所が、比較的大きな川が運ぶ土砂で埋められたものと思われる。ペリー上陸の地は現在、記念公園となっていて、記念館もある。場所は、砂浜から道路一本を内陸側に越えた所。


右後方はペリー記念館

沖を黒船仕様の東京湾フェリーが行く。
隣合わせながら、浦賀と久里浜の地形の違いが、その後の両者の発展の仕方を左右したと私は思う。浦賀の湾は深く入り込んでいるため、波静か。水深も深い。このような地形は近代造船所の立地に適した。ペリー来航と同じ年、幕府は浦賀造船所を開設、我が国初の洋式軍艦がここで建造されている。明治に入って、横須賀造船所開設のあおりで一旦閉鎖されたが、1897年、旧幕臣の榎本武揚らが発起人となって浦賀船渠(浦賀ドック)が設立され再興。1898年には、同じく浦賀湾内に川間ドックも操業開始。以降、浦賀船渠→浦賀重工業→住友重機械工業と会社は遷移したが、長きに渡り浦賀は造船の街として栄えた。特に、横須賀基地に近接することから、海軍や海自の艦艇の建造・修繕が多かった。現在、浦賀ドック(2003年閉鎖)、川間ドック(1984年閉鎖)とも造船所としての役割は終えたが、世界的にも貴重なレンガ積みドライドックの遺構として残っている。


中にある浦賀ドックは普段は見学できない。

マリーナの係留場になっている。

(愛宕山公園の記念碑)

江戸時代の奉行所舟番所もこの辺りだった。

交差点左奥に閉鎖した造船所の建物が残る。
一方の久里浜。こちらには海軍の軍人養成機関が次々と開設された。海軍通信学校(1939年)、海軍工作学校(1941年)、海軍機雷学校(1941年)。機雷学校は岬の山を削って海岸を埋め立てたものだが、他の二校は、田園か湿地だった平地に広々とした校地が展開していた。山が海に迫る浦賀では、これだけの敷地を確保することはできなかったはずだ。これら三校の敷地跡に建つ現在の施設を列挙すると、陸自駐屯地(通信学校)、市立高校・小学校・図書館・公園(工作学校)、海自研究所・刑務所・少年院(機雷学校)などなど。これだけの数の大きな施設が建つほど海軍学校の敷地は広かったわけだ。そこには大勢の教官や見習い軍人がいたのだから、地元への経済効果は絶大だったろう。ペリー上陸当時の久里浜は一介の漁村だったが、現在でも浦賀より大きな久里浜市街は、海軍学校の門前町として、海軍の在りし時代に発展したものだと思う。


